TOPライフスタイルメンタル・心理学禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで#507 禅の道...達磨大師のこと④29:01 2025年10月22日 265再生 問題を報告する 再生する シェアする 引き続き、禅宗の初祖・達磨大師のことについて...AI目次達磨大師が問いかける心のありか苦しみの正体を見極める覚悟とは人生を肯定する発想の転換とは何か現状を変える一歩を踏み出す勇気心の変化が未来を照らす光となるAI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ おはようございます。エレンジの古川周券です。 今日もどうぞよろしくお願いいたします。 # 師から弟子へ...お前を責め苛み、縛るものは何か? 今日は、禅の道ということで、だるま大師のお話の4日目になります。 今日お話ししたいのは、摂取の絵で有名な物語ですね。 だるま大師の跡を継がれる神戸絵家という方が、雪の中、商人島で山の中を登っていくんですね。 だるま大師に入門しようと思って求めていくんですけれども、だるま大師は壁を向いたまま振り返ってくれない。 ずっと一晩、雪が積もるまで、自分の肩や頭に雪が積もるまでずっと立っているんだけれども、振り返ってもらえないから。 この神戸という人は、自分の腕を肘から断ち切って差し出した。 そこで初めてだるま大師は神戸の方を見てくれるんですよね。 そこで起こる、門戸と言われています。摂取の絵は、腕を断ち切って差し出している姿が描かれているんですよね。 無本観という禅の五六のテキストでは、前回もお話ししましたけれども、 だるま、面壁す。にそ、雪に立ち、肘を立って祝く。 ていし、しん、いまだ、やすらからず。やすからず。 こうし、安心せしめを。 だるまは、壁に向かってそららだえた。だるま大師は、壁に向かってそらって笑った。 面壁す。にそ、雪に立ち、肘を立って祝く。 二番目の後継がられ神戸という方は、雪の中に立ったまま、肘を立って、こう言った。 ていし、よし、できているんですよね。心、いまだ、やすからず。 こうし、安心せしめを。私は心が安らかにはならない。 お願いいたします。どうぞ、私の心を安らかにしてください。 ま、祝く。しんを持ち来たれ。何事がために休むぜ。 だるま大師はすると、そのならば、その安心できない心をここへ持って来い。 持って来れば、お前のために安らかにしてやるぞ。 そ、祝く。しんを求めるに、常に深くなり。 ま、祝く。何事がために安心し終わるの。 にそ、絵家という人は、だるま大師に、ここへ、お前のその不安なという心を出してみろって、 見せてみろって言われて、ずっとだるま大師に自分の心を示そうと思うんだけれども、 心というのは捕まえることができません。 だから、どうしてもだるま大師に差し示すことができない。 だから、しん深く心を得ることができません。 すると、だるま大師は、お前のために安らかにしてやるぞって。 ま、前回にも話しましたけれども、何かこう、はぐらかされてしまったようなものなんですね。 お前がそんなに不安だというなら、その不安な心とやらを出してみろって。 出せませんって。安らかにしちゃったぞって。 何か解決が行われているか、何かすごいことが語られているかって言うと、そうでもなさそうなんですよね。 この問答をどう理解したらいいのかって。 これは、善というものを受け入れて、善というものを我がものとする上で、とっても大事な問題となります。 この問答が自分のものにならないうちは、まだ善というものが我がものとなっていない。 そこまで言ってもいいことなんですよね。 実際にこの問答というのは、善の歴史のごく初期の段階で、繰り返し繰り返し行われていくんですね。 これはだから、そのダルマ太子とダルマ太子の余韻が残っている頃の善の代表的な問答なんですね。 この構造で救いを得ていく。この構造で悟れていくということが、善の基本的な枠組みなんです。 例えば、この物語、今日話している物語は、ダルマ太子、初祖ダルマ太子から二祖、二番目の仁公絵家という人の間には行われた物語です。 ところが今度、二番目の、今ここでお話しした法を継がれた仁公絵家という人から、三番目の宗参観智、観智宗参という方に法が継がれる時にも、同じような問題が起きていくんですね。 このダルマ太子の法を継いだ仁公絵家という人のところに、ある時、一人の修行者がやってくるんですよね。 この修行者は、もう年は四十を超えていたというんです。名前も言わないで、ただ、来拝をして問いかけるんですよね。 ていしのみ、風養にもとある。こうおしょう、罪を許すたまえ。 ていしのみ、弟子である私が、風養、風養というのは、豪病なんですね。雷病だとかなんとかって言われてます。 この曹洞宗の経産伝授の伝功録には、これは雷病のことだって書いてあるんですけれども、要するに治療ができないような重い病気ですよね。 当時は医学的な知識がなかったから、こういう治療できないような、しかも姿が怖いようになるような豪病は、これは前世の悪病の結果だって、前世のカルマなんだって考えられてたんですよね。 ですから、この太郎太郎大使の方を継いだ、神皇のところへやってきた、この一人の無名の主要層は、自分がこの豪病になってしまった。 この豪病、でも自分自身には、ここばかりがないって。おそらくこれは、自分の前世の傲難だと思うって。 どうか、私の罪を許してください。そしてこの豪病から、私を救ってくださいって言うんですよね。 もう、切実なこの質問に対して神皇陛下は答えるんですよね。 罪を持ち来たれって。何事が為に許さんって。 自分自身がかつて太郎太郎大使と言われたのと同じことをここで言うんです。 その罪であらわを出してみろって。お前の為に許してみせよって。 そうすると、この無名の子児は、了求して答える。 了求ってのは、良いという字、いさしいと書いて、じーっと静かに黙行する。 じーっと静かに黙って考え込むんですよね。 で、神皇陛下は答えるんですね。 罪を求むに不可得なり。自分を苦しめている罪を求めるけれども、それを得ることができません。 すると、神皇陛下は答えるんですね。 何事が為に罪を許し終わるのって。 お前の為に罪を許しちゃったぞって。 宜しく仏法相によって従事べし。 お前は出家して、正式に仏教徒となって修行すべきだぞって。 で、入門するんですね。 で、この強弱に晒されていたという男、無名だった男。 この男の事を、深く懲りを打つわとするって。 素晴らしい人材だって。素晴らしい人だって事を。 それで神皇陛下は、提発をしてあげるんですね。 自ら頭を剃ってあげるんですよ。 それで、これは宝なり、お前は私の宝だって。 宜しく僧さんと名付けべしって。 僧侶は輝くと書いて、輝くような修行者だって僧さんって。 観智僧さんって名前を授けるんですよね。 こんな風に法が作られていくんですね。 この物語はまだ続くんです。 こうやって救いを得て、前週の3番目の産祖となった観智僧さんという人のところへある時、 14歳の社民、道親という人ですね。社民だから若い小僧ですね。 14歳の小僧の道親という人がやってくるんですよ。 で、来会して尋ねるんです。 願わくば和尚、慈悲を持って来る。下達の訪問を与えんこと。 お願いいたします和尚様って。お慈悲をくださいって。 私を束縛から下達させてもらえる。私を縛るものを束縛から解いてくれる。下達の訪問を与えんこと。 下達の仏法を与えてくださいって。 すると、かつて神公に救われた3番目の僧さんは答えるんですね。 誰が汝を爆すって。お前は束縛する者とは何者なんだって。 すると道親は、人を爆するなしって。いや、誰かが縛る訳ではありませんって答えるんですよね。 そしたら僧さん、こう答えるんです。何度さらに下達を求もるやって。 お前は人に縛られてるって、下達したいっていうのは縛られてから下達したいって言うんだろうって。 じゃあ誰が縛ってるんだって。縛ってる者はいませんって。 じゃあ何で縛る者もいないのにどうして施されようとするのかって。 その言葉を聞いて、この4番目に後を継がれた道親大尉という方ですけども、この言葉で悟ったって。 自分を縛る者、自分を苦しめる者は何か、その正体を見せてみろって。 それに対して正体がないって。 その瞬間に下達が訪れる。ですから自分で気づくんですよね。 だから自分で、例えば不安っていうものが、捕まえようと思っても不安はないって。 あんなに自分を苦しめてた不安、あんなに自分を苦しめてた心の苦しみが、いざこれを人の前に出しとおうと思ったら捕まえようなんですよ。 自分が苦しい苦しいと思っている時は、寝ても覚めても苦しみの方が自分を追いかけてきますよね。 だけどじゃあいざ自分がその苦しみを捕まえようとした瞬間に、苦しみはもう逃げて逃げて逃げて捕まえることができないんです。 自分を苦しめている罪っていうのは、それは寝ても覚めても自分を追いかけてくる。 だけど罪っていうのは自分が捕まえて、これが罪ですって言おうと思った瞬間に逃げていく。 自分は縛られてる縛られてる苦しい苦しいって言うんだけど、じゃあ縛ってるものの正体は何かって。 それを引き受けようと思った瞬間に、その縛ってたものは姿を消すって。 ここに発想の転換、態度の転換がありますよね。 これが先週の最初の始まるところの基本的なものの感じ方、考え方なんですね。 # 覚悟を決めること 私たちは、人生の中で様々なものに苦しめられます。 大事なことは、まず最初に苦しみというものの中に、いろいろなものがあります。 その由来も、基本的なあり方も、基本的な構造も、全部違いますよね。 様々な苦しみがあります。 それをきちっと見つめて、その苦しみがどこから由来して、どんなものなのかということを、 まずはっきりと、しっかりと、見届ける必要があります。 この整理ができないと、やみくもに救済を求めても、その解決は出てこないですね。 だから立ち止まって、誰もが自分を苦しめるものを見つめるのは嫌ですよね。 怖いし、不安だし、つらいし、だけども、立ち止まってこれを見つめないことには、解決の糸口は見つからないんです。 だからまず最初に、自分を苦しめるものを引き受けて立ち向かうって、 まずじっくりと、面と向かって、じーっと見届ける。その正体を見届ける。 目を逸らさず、じーっと見つめて見届けるということが、まず最初に必要となります。 苦しみの中には、もう我々が解決しようのない、命というものが引き受けなきゃならないような基本的なものがあります。 生老病死の苦しみですね。これは避けようがない。解決しようがない苦しみです。 命というものが、そういうものを矛盾として引き受けて持っているんですよね。 だから、それは避けることはできない。 だからじゃあ、何らかたちでこれにどう立ち向かいながら生きるかということがポイントです。 解決できない。解決できないって絶望する必要はないですね。 野球の試合が必ずルールがあるって。ルールを破ったら、どうにもならないですよね。 野球の試合は始まったら必ず終わります。もう嫌だ。続けたいと思っても必ず終わりが来ます。 同じですよね。嫌だ嫌だって。終わるのが嫌だって誰もが思う。楽しかったらもっとやりたいって。でも必ず終わりがあります。 で、終わりがあるということは止めようがないですよね。だけど、止まらないからもう野球の中したくないじゃないですね。 人生もそうですよ。死にたくない。病になりたくない。途中を通りたくない。誰もはそうです。で、つらいですよ。 つらいけど、その症状病史がなくならないかと言って、じゃあもう行きたくない。人生なんかなんの中でもないって。それはわがままですよ。やっぱり。 どうにもならないものはあるけれども、解決できなくてもいいんですよね。症状病史の問題っていうのは引き受けなきゃならない。 しかしそれが苦しくてつらいものではあるけれども、そのつらいものであるけれども、人生をしっかり生き抜くことによって、 それでもつらい症状病史の苦しみがあるけれども、それでも私はこの人生を肯定することができるって。生きていてよかったって。 人生の中からたくさんのものを得て、たくさんの学びを得て、最後はこうやって自分は死んでいくんだけども、よかったって言えるって。 そういう道筋はあるわけですよ。自分にとってつらいもの、嫌なもの、それがなくなることができなくてもいいんです。 ずっとそれと付き合ってからならないとしても、だけども全体として自分の生き方、自分の人生をよかったって肯定することができるんですよね。 そのためには根本的な発想の転換が要ります。 この根本的な発想の転換を気づいただけじゃなくて、その発想の転換した新しい生き方を本当に自分の心の奥底から湧いてくるものとして、 頭のてっぺんからその先まで浸透して、そういう生き方ができるように、そう感じ、そう考え、そう行動できるように、徹底的に自分を作り変えていくって。 それができれば、少量病死の苦しみがあったって、生きることは必ず死ぬことが繋がる、病もある、老いもある、しかしそれでも人生をしっかり生きるって、そういう風に考えてわかることができます。 それを行うのが修行です。 それでも、そもそも修行の姿勢というものができていなければ、努力のしようがない。 そういった少量病死の問題、人間というのは無力な生き物です。生命というのは無力なものです。 だから、自分が解決できない問題から目を逸らしたり、誰かが助けてくれないからなんて、変なただのりのような期待を持ったり、努力を惜しんで逃げ回っていても解決になりません。 無かったふりをしても、人生の最後に必ずやってきます、それが。逃げることはできません。 逃げることができないからって、じゃあ解決するかって解決できない。 だけども、それはあるものとして引き受けながら、どうやってそういったものを引き受ける心の準備をするかって、そのためにしっかり正体を見届ける。 そうすると、あれだけ嫌で嫌で、避けたくて避けたくて、見るものも嫌で、おぞきを振るうものであっても、じっと見つめて、それと立ち向かうことをトレーニングする中で、 よしと、これを引き受けて自分は生きてやるって、そういう勇気は自分の中から湧いてこなければならないんですね。 湧いてこなければ、それは本当の人間になっていないということです。 それを引き受けるということが大事ですよ。 まず最初に、逃げ回るんじゃなくて、直視して引き受けるということですよ。 人生というのは始まったら必ず終わる。 人生というのは命とは儚くてもろいものだから、病にもなる。 思い通りにならない。 歳もとる。歳は捨てなきゃならない。 思い通りにならないんだって。 でもそれは思い通りにならないし、自分の希望通りにはならないけれども、あらゆる手を講じて、自分にとってこれがベストであった。 これ以上の生き方ができなかったと思うところまで、生き抜くための力を自分の中から得ていく。 その力の源泉は、自分の心の中にあります。 それを目覚ませるのが必要です。 目覚ませるためにはまず、自分の人生を引き受けるということが大事なんですね。 自分自身の生き方の主人公となることが大事ですよね。 この自分自身を引き受けるということ、自分自身の生き方の、 辛くても何でも自分の生きるという一回しかない人生の、一個しかない命の主人公として生きるということを、 辛くても何でも引き受けると思う覚悟を固めて立ち上がるその瞬間のプロセスを描いているのが、 これもダルマ大師の物語、つまりダルマ大師から二番目の神戸絵化、 そして三番目の漢地創産、四番目の道心大秘、この四人の物語。 お前の心の中の悩みを出してみろって。出せませんって。 楽にしてやったぞって。開放してやったぞって。 この物語の中にあるのは、この心の切り替えを描こうとする。一貫してそれを描いているんですね。 心が不安だ、不安だ、不安だって。何とかしたいというふうに立ち向かおうとはしているんだけど、 立ち向かおうとしながら、でも心がやっぱり向くのが怖くて辛いから、腰が引けているんですよ。 不安だ、不安だ、不安だって。不安に駆られてしまって突き動かされているんだけど、正体を見ようとは思わない。 不安だから怖いから走り回るんです。でも正体をよく見ないで走り回っているんですよ。 やっぱり怖いからですよね。でも正体を見なかったらどうにもならないんですね。 でもさすがに逃げ回ることに疲れて、正体が分からないけど怖いから見ることができないから逃げ回っていて、逃げて逃げて逃げて、 でもそれでも辛いから最後にだるまたらしのとこにやってきて、もうこっちの方は見てくれないんですよ。 でも何とか命がけの覚悟を示したら、こっちを向いてくれた。 じゃあもうこの人の前で全てを洗いざらいして、救ってもらわなかったらどうにもならないわけですよね。 で、どうしたかと言うとだるまたらしが、お前が逃げ回っているものの正体を見届けてこのまま私の前に出してみろってわけですよ。 逃げるなってことですよね。心を出してみろって言うのは逃げるなってことです。 目を見開いて見ろって。正体を見届けろってことです。 後にその子の人口のところへ、自分はこの病で苦しんでいるんだけど、この業病は前世の業だ。前世の業の罪があるからだ。 その罪を出してくれって言うけど、罪があるっていう風に当時言われていたし、人も言うし、自分もそんなもんかなと思っていたんです。 それを楽になりたい一心だけど、いくら楽になりたいと思っていても何にも解決されません。 もう最後行き詰まって行き詰まって、縋るような思いで助けてくださいってやってくるんですね。 その瞬間に出してみろって。その罪を出してみろって。そしたら許してやろうって。 もうそれまで逃げて歩いていたんだけど、見ざるを得ませんね。出してみろって言われるから見ざるを得ないんですよ。じーっと凝視するって。 捕まることはできませんって。 まあこの問題は、医学的に病が治ったかってことは考えにくいですね。 これ、もうおそらくですよ。はっきり言ってしまえば、病が治る、治らんは問題ではないということです。 病がある人間として自分がそれを生きる。しかしそれは、いつかどこかで自分が気が付かないうちに背負ってしまったような罪ではなくて。 そうじゃなくて、自分がそういうものとして生まれたということなんですよ。それを生き抜く力ですよ。 その辛さがあっても、生き抜くことを自分の中に振り起こすって。それを引き受けるってことが大事です。 そのために自分の病と向き合わなければならないということですよね。 自分を束縛するものがあるって。なんとなくもやもやしてもやもやして、気持ちが晴れない。 なんとか知らないけど束縛されているって。その束縛を出してみろって。 それまで束縛されていると思い込んで走り回って走り回って、でも走り回っていながら正体は見つけることができない。 勇気がない。それを出してみろって言われて、身だらを得ないんですよね。 で、目をかっぴらえて、胸汁を消して見てみたら、実は自分自身が作っていたものなんですよ。 自分自身で自分を縛っていただけですよね。出せませんって。 だから、束縛するものがないのに、なぜそれ以上に恥ずかれようとするのかって。 言葉にすれば簡単なんだけども、自分の心がガラッと切り替わるということですね。 勇気を振り起こし、覚悟を持つということ。これは難しいです。言葉で説明したら難しいです。 でもこれは言葉ではなくて、自分の心の中でやらなきゃならないことなんですね。 # 心が切り替わる時 この物語を考える上で大事なことは、こうやって自分の心の不安を取り出そうと思っても捕まえることはできません。 自分を苦しめている罪を出そうと思っても出すことができません。 自分を縛っている束縛を出そうと思っても出すことができません。 そのことに気づいたからといって、束縛がなくなるわけでも、不安がなくなるわけでも、自分を苦しめる罪、自分を苦しめる原因がなくなるわけでもないんですね。 そう気づいたからといったって、気づいただけでは問題解決しない。 場合によると問題は死ぬまで解決しないんです。 大事なことはそうじゃなくて、命というのは時としてそういうものを引き受けなきゃならないことを要求するんですね。 生まれた瞬間に様々なものを引き受けなきゃならないわけです。 生老病死の苦しみの中の生きる苦しみ、これは前にもお話ししましたけれども、親ガチャみたいなこともある。子ガチャみたいなこともある。 自分がいつ生まれるのか、どこで生まれるのか、どんな社会のどんな家庭に生まれるのか、どんな姿をとって、どんな能力を持って、どんな人間の中に生まれてくるのかって決められないですよ。 ほとんどの場合思い通りにならない。恵まれてる人もいる、そうじゃない人もいる。 でも一応に言えることは、自分の思い通りにはならないということです。 だから程度のこそ、さこそあれ、誰もが思い通りには生きられないんです。 だから思い通りに生きられないということ、苦しいということを背負いながら生まれてくるわけですよね。 で、それをじっと見つめても解決にはなりませんよね。 見つめて見つめて解決できることならば、誰も一生懸命見つめて解決しようと思うじゃないですか。 それでももう、どう見つめてもどう立ち向かっても、なくならないですよ。 どの時代に生まれるか、どんな家庭に生まれるのか、どんな環境に生まれるのか、どんな人間として生まれるのか、能力のあるのかないのか。 そんなどうにもならないことっていっぱいあるわけですよね。 それをじっと見つめて引き受けようと思ったって、現状は変わらない。解決はできないんですよ。 だけど解決できないからって、目を逸らしても仕方がないんです。 この物語のエッセンスは、解決しようと思ってもどうにもならないものに対して、 それでもそういう自分はものとして生まれ、そういうものとして生きていくってことを、はっきりしっかりと見続けて、 その上でベストを尽くしたい言い方をするって、心を固めることなんです。 そんなことできるかって、人は言うかもしれません。できないかもしれない。 しかし、できようとできなかろうと、人生は一回だけなんです。できようとできなかろうと、何も変わらないですよ。 変えようと思うんだったら、自分が一歩前へ踏み出すしかないです。解決できなくても前へ踏み出すんです。 もう解決できなくても、この苦しみを引き受けて前へ踏み出す中で、いろんなことができます。 解決できなくても、違う形で自分の生きがいを見つける。解決できなくても、自分にできることは何か探す。 何かできることもあるのかって、ダメダメずくし、できないことできないことずくし、 もうダメダメダメダメ、何の人と比べて溺れるものが何もなくても、何にもできないわけじゃないんですよ。 自分にできることは探せば、いくつも、いくらでもあります。その時に、こんなしょぼいものって言いますけど、 そのしょぼいって、その低い評価はどこから出てくるか、それは比較から出てくるんですよ。 比較なんか必要ありません。誰もが思い通りにならないわけですから、比較なんか必要ないんですよ。 自分にできるベストのこと、自分にできるマックスのことをきちっとやったかどうかだけが問題なんですよ。 一回しかない命です。どんなに辛かろうと、どんなに自分にとって嫌であろうと、一回しか命をもらったんですよ。 一人しかない、自分の命をもらったわけですよ。それをどう生かすかってことです。 もう勇気をふい起こし、こぶして立ち上がって前に進むって。最初のうちは、いいことなんかないですよね。 だけれども、人生かけて、ほんのわずかずつでもいい、ほんの一ミリでもいい、ほんの一ミクロでもいいから、できること、できること、できること、できることって積み重ねていって進んでいくんですね。 そして、地図も積もればなんです。もっとばかりあきらめないで、絶望しないで、ずっとできること、できること、できることを引き受けて、 引き受けて、引き受けて、歩きつけていったとき、ふっと気付いたときに、自分がどれだけのことができたか、分かるときがきます。 前にもお話ししましたけども、ミハイル園での桃だったら、その道路工事を、道路の掃除をする別歩、ものすごい量の掃き掃除ですよ。 周りをお金持ちで、もう楽しそうにみんながウキウキしながら、遊びながら歩いていくんですよね。 それに比べて自分は毎日毎日、エンテンガーで、ホウキで、道路をはかなくならない。 こんな距離をはけるんだろうか、自分は歳をとっても、それでも立ち止まって、どうだどうだって思わないですよね。 一息、一息、一息、一息、一息、一息、一息、一息、一息って、ずっともくもくもくもくと続けていて、ふっと気付くと、その日一日の仕事が終わっている。 今日一日できた、また明日、またゼロから始めるんですね。 一呼吸、一呼吸、一呼吸、ゼロから始めて、ゼロから始めて、ゼロから始めて、ひと吐き、ひと吐き、ひと吐き、ゼロから始めて、ゼロから始めて、ゼロから始めてって。 そうやって、もくもくと自分の命を全うするということ、この覚悟が固まれば道は開けます。 その覚悟が固まって、自分を苦しめている者の正体、その悩みの正体、自分の限界、それはずっと吐き清めながら、一歩一歩一歩一歩歩きながら歩いていくならば、その正体があるとき、全く違った形で見えてくる日が来ます。 最初は、もう絶望の中で、いやいや、嫌の中でやってるんですよね。でも、ある程度それはきち、きち、きち、きち、きちっと、丁寧に丁寧に丁寧に、ひと吐き、ひと吐き、ひと呼吸、ひと吐き、ずっと続けていくと、あるとき、見え方が変わってきます。 まずは十年。まずは十年、頑張って、わがままは言わないで、ひと吐き、ひと吐き、ひと呼吸、ひと呼吸、吐き続けていくんですね。 その第一歩が描かれてるんですね。もうそれまでは、心を安らかにしてくださいって誰かに投げてますよね。引き受けてないんですよ。 もう、でもそれでも、もう、うすうす自分の心の中で、これ、解決なんかないよねってわかってるでしょう。それでもどうにもならんから、だま太子のもとへ行く。 だま太子は、逃げるなって、わしの前出してみろって。もうここで逃げたら、どうにもならないですね。だから意を消して、逃げずに引き受けるって。そこで見えてくる決心が違うってことですよ。 こんな物語のようにきれいにはいかないですよ。きれいにはいかないんだけれども、もし私たちが、生き方が変わるって、先に光が見える、ひとつの光が見えるとすると、こういう心の変化、こういう心のプロセスがなければ、光は絶対に見えないですよね。 繰り返しますが、こんなにきれいにはいかないんです。人によっては、ずっと変わる。もうこんなにきれいにはいかないです。ほとんどならば、うまくいかないです。きれいにはいかないです。それでも、この心の転換ってことを経験しなければ、やっぱり最終的な先へ進みませんね。 つらくても、こうやって変わることができる。こうやってこの先に光があるってことを、強く信じて、一歩一歩やるしかないですね。 太郎又吉は、面壁、川へ向かって、9年って言いますよね。私たちも10年、とりあえず、結論を出す、請求に答えを出そうとしないこと。長い間、飽きながらとも、いや、しかし、人生かけてやるわけですから、10年ぐらい、いいじゃないですか。 つらくても、つらくても、つらくても、遠く先を信じて、コツ、コツ、コツ、コツ、と。木産が立とうが立つまいが無関係。コツ、コツ、コツ、コツ、と。無条件で、毎歩、一歩、一歩、やるということ。この心の固まった瞬間を、この太郎又吉の物語は、描いているって。 まあ、いろんな解釈があるかもしれませんが、私は、修行道場にいた時に、この物語は、自分を引き受けろって。逃げろだって。目を逸らすなって。で、じーんと目を閉めて、見続けろって。 いや、自分の心を見続けたら、縛るものなんか無いよね。そんな風に、一瞬で解決なんか無いんですよ。そうじゃないんです。引き受けろ。引き受けろ。引き受けろって。 後から、引き受けて、10年歩いてみた時、後から、自分の見え方が変わったのは、あの瞬間からだって。でも、それを我が物とするのに、10年かかったかって。そういうことですよね。 そんなわけで、ちょっと今日は難しい話かもしれませんけれども、まずは、心が変わるってこと。お互いの物語は、そこを描いているっていう。そんなことなんですよね。 # 終わりのあいさつ さて、今日も長い時間お受けいただきまして、本当にありがとうございました。 どうぞ良い1日をお過ごしください。 もっと見る #達磨大師 #禅の道 禅僧と考える...日々の暮らしから人生までプレミアム放送配信中!00:111.初めのあいさつ09:492.師から弟子へ...お前を責め苛み、縛るものは何か?09:543.覚悟を決めること08:594.心が切り替わる時00:105.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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#640 AIの衝撃の大きさを受け止める② 16分・昨日・ 142再生AI目次IBM Watsonと開発者の情熱理想のAIが蝕む人間の本質知のブラックボックス化の危機人間的行為とコミットの喪失AI時代に蘇るソクラテスの問い
#639 AIの衝撃の大きさを受け止める① 14分・9月10日・ 132再生AI目次AI開発の原動力、IBMの熱狂人間の夢を映すAIという存在Watsonの誤答が示すAIの未来AIの冷静さと人間の情熱の対比AIにできない人間の情熱の真価
#638 辛い思いをして修行をしても、無駄になってしまうのではないか?~夢窓国師『夢中問答集』を読む(47)「円満具足の本分」① 13分・9月9日・ 209再生AI目次厳しい修行と拭えない心の疑問成果主義がもたらす仏道への誤解誰もが持つ「円満具足」の真の姿他人との比較を超える喜びの源泉理屈抜きに「良い」と味わう体験
#637 どこまでも己にとって返す~夢窓国師『夢中問答集』を読む(46)「是非の念と大悟」② 13分・9月8日・ 148再生AI目次他人の是非を越え自己へ帰れ徹頭徹尾「自分のため」の修行「自他」の区別以前の自分を掴む「お前は何者か」という深遠な問い途方に暮れる悩み、悟りへの一歩
#636 他人の是非を口にする前に~夢窓国師『夢中問答集』を読む(46)「是非の念と大悟」① 16分・9月7日・ 189再生AI目次他人の是非に悩む心の現実修行者への唯一の指摘「一両剣」他者の評価が示す自身の未熟さ自己向上を促す「良い点を見る」教え他人の言動が示す自己の内面とは
#635 禅の物語~葉落ちて根に帰す 六祖慧能大師(其の五) 14分・9月3日・ 205再生AI目次禅の革命者 六祖慧能大師とは仏を見出す鍵 自身の衆生を知れ葉落ちて根に帰す 慧能の死生観形式を排した最期の教えの真意言葉を超えた慧能禅の遺志とは
#634 一切を棄てるとは?~夢窓国師『夢中問答集』を読む(45)「悟入」 14分・9月2日・ 212再生AI目次心の捉えどころない性質消えない記憶と煩悩の根源「一切放下」が示す悟りの本質達磨大師が語る「心牆壁」不完全でも歩み続ける境地