TOPライフスタイルメンタル・心理学禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで#508 禅の道...達磨大師のこと⑤21:23 2025年10月27日 325再生 問題を報告する 再生する シェアする 禅宗初祖・達磨大師のこと、最終回です。AI目次毒殺説も?達磨大師を巡る迫害の歴史を考察片足の履物…達磨大師の伝説に隠された禅の教え弟子への問いかけに見る悟りの深さとは?言葉を超越した境地!達磨大師が認めた後継者達磨大師が遺したかった「本当に伝えたかった事」AI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ おはようございます。 エリンジの古川周券です。 今日もどうぞよろしくお願いいたします。 # 宗教は怖いもの? 今日は、前週の始まるとなった、初祖、ダルマ太子についてのお話、5回目。 今日で、とりあえずお締めくくり、最終回になります。 中国で禅を伝えた、ダルマ太子が亡くなる禅後のお話ですね。 いくつか、とても印象に残る物語が残されているんですが、まず第一に、ダルマ太子が亡くなる時のお話ですね。 びっくりすることがあるんですが、ダルマ太子、一説によると、毒殺で殺されてしまったと言われているんですよね。 ダルマ太子の絵は、例えば、歯が、前歯が2本欠けている絵があるんですね。 血死のダルマ、歯が欠けると書いて、血死のダルマと言うんですが、 これは、ダルマ太子が少しずつ名前が広まっていって、有名になっていくって。 大勢の人の信頼を集めて、信仰を集めるようになってきた。 これに対する、憎しみとか嫉妬ということから、かなりの迫害を受けたようなんですね。 それで、医師をぶつけられて、歯が欠けてしまった、そういう物語があります。 毒殺ということも言われていて、真理のほどは定かではないんですが、 こういった物語から分かることは、初期の全宗教団、新しい教団はそうなんですけれども、 小さいうちはお見こぼしになるんですが、だんだん教団が大きくなって、 勢力が広がってくると、どうしても争いになるんですよね。 宗教というのは、もともと心の平安を求めるのが基本なんですけれども、 そういう心の平安を求める者が、憎しみを負ってしまうというのは、 とても悲しいことですが、よくあることです。 実際、ダルマ太子の教団は、最初の頃、そういったことで、 ダルマ太子の晩年ですよね、迫害を受けたんじゃないかなと。 一つ一つのエピソードの真偽は明らかではないですけれども、 こういった物語が伝わるということは、実際に迫害になったんじゃないかということは、想像ができるんですよね。 同じことが、お釈迦様の教団についても言われています。 古い昔のことなので、真偽のことはわかりませんが、 お釈迦様の弟子たちも、実はお釈迦様よりも先に亡くなっているんですよね。結構亡くなっているんですね。 やっぱり、ブッダ、お釈迦様の教団も激しい迫害を受けて、弟子たちが亡くなっている。 毒殺をされているということもあるようです。 ですから、激しいことを言う方なんかは、 お釈迦様が最後亡くなったのも、毒殺ではないか、なんてことを説として立てる方がいるんですね。 お釈迦様の裁判で、きのこが体に悪くて当たってしまって、それで亡くなったと言われているんですけれども、 そんなミスを犯すはずがないと。きのこを食べているわけだからみんな、そんなミスを犯すはずがないと。 食事に提供されるきのこの中に、誰かが意図してお釈迦様の命を取るために、毒きのこを混ぜたんじゃないか、なんてことを唱える方もいるぐらい、 お釈迦様の教団も迫害されたということですよね。 人間の習いですね、世の常なんです。 ですからこれは、宗教がどうなっているかというよりは、むしろ、やっぱり人間の持っている差がですよね。 で、なぜ宗教、心が清らかであるべき、救済を求めるべき宗教で、なんでそんなことが起きるかって、 一つは、人間がそういう救済を求める気持ちは、そういう強くある、激しくある、これは間違いない思いなんですが、 それだけ切実だからこそ、ちょっとした意見の食い違いが、やっぱり大きな違いと憎しみを生んでしまうということですね。 真剣に真剣に立ち向かえば立ち向かうほど、やっぱりちょっとした差は許せない。 逆にそれほど大事なことでなければ、まあいいからなんですよね。 だけども妥協を許さない、心の平安とか、命に関わることですからね、そのちょっとした違いを許せないとなる。 だからそれが憎しみに変わってしまう。 だから宗教が怖いというよりは、恐ろしいのは本当は人間であって、 しかも宗教というのは、人間が生きるか死ぬか、あるいは生きる意味があるのかないのか、 ギリギリのところに直面したときに宗教に向かうから、 だからある意味では宗教って切羽詰った人が集まる場所なんですよね。 だから怖い。宗教が怖いというよりも人間が怖いのであって、 その人間が切羽詰ったときに宗教に行くから、だから怖いんだということが言えるんですね。 # 達磨大師滅後のもの語り だるま太子が亡くなられたのは、 この前週のお坊さんの伝記としては一番権威がある 慶徳伝道録というテキストに基づけて言うならば 永安元年、ですから528年の10月5日に 150歳で亡くなったという風にされています。 それで、この慶徳伝道録によるとですね、 だるまさんが亡くなった時には、ちょっと不思議な物語があるんですね。 だるま太子が永安元年、528年、 西暦で言うと528年に10月に亡くなった後、 その3年にしてからですね、 この西域、インドとかペルシャですね、 西域へ学問、学びに行って、 西域から留学を終えて中国に帰ってくる 宗文というお坊さんがいるんですね。 この方、学生みたいには学びって言いましたけれども、 かなりの立場の人で、この国王から命令を受けて、 外交官という立場もあったんでしょうね。 いろんな国の王様と面会をしています。 行った先で、この仏跡を来拝するんですけど、 同時に命を受けて、中国の様子をいろんな国の国王に説明しているんですね。 この孔子様や老子様や宗師の学説を説いたなんてことが言われています。 どちらにしても、この宗文という人が、 自分の役割と学びを終えて、 この西域から中国へ帰る途中ですね。 その通り道のパミル高原、このパミル高原の このソウレという場所があるんですが、 そこでダルマ大使に出会うんですね。 その時に、そのダルマ大使は実は、 履物を片方だけ手で持って歩いていたって言うんですよ。 変な格好ですよね、裸足で。 靴を片手に持っている。しかも一足だけですよね。 片手持って歩いていたって。 で、孫がびっくりして、どちらへ行かれるんですかって聞くと、 ダルマ大使はインドに帰るんだって答えたって言うんですよね。 で、同時にその時に、そのダルマ大使はこの宗文に向かって、 あなたの主君である国王はすでに亡くなっておられるよって言ったって言うんですよね。 で、その後、あ、そうなんだって思って、 ちょっと変だなって思いながら国に帰って、 そのことを話すんですけども、 実はその国に帰ってみたら、 自分を派遣した皇帝、公明帝が亡くなっておられたってことを知るんですね。 で、あれって当たってたぞって。 じゃあ本当にダルマ大使は中国から再行き帰る途中なのかなって思って、 でも聞くと変なんですよ。 ダルマ大使は実はもうすでに亡くなってたって言うんですよね。 あれって、亡くなったダルマ大使に会うはずないじゃないですか。 そこで、でももしその会った人が別人であるならば、 その国王が死んだなんてことは分かるわけないじゃないですか。 で、宗文はダルマ大使に会ったことがある方なので、 私が会ったのが確かにダルマ大使だって。 それでもうみんな慌てて、何があったんだろうってことで、 ダルマ大使のお墓を開けてみたって。 そしたら中には泣き柄がなくて、靴が片っぽだけ残されたって言うんですよね。 そこでダルマ大使の絵は、靴を片っぽだけ履いた絵があるんですね。 石切りのダルマって言われてるんだけども、 不思議だな、なんで靴片っぽだけなんだろうってことで、 石切りのダルマっていう絵になって残されてますね。 ダルマ大使の絵というと、ねんぺきのダルマ、 壁に向かって座禅をしてるダルマさん、 それから露養のダルマと言って、 武帝とお目にかかったけどもううまく伝えられなかったから、 その夜にこっそり寮の国を去るときに、 細長い足筋ですよね。 足筋に乗って帰ったっていう説があるから、 その足筋を足の葉っぱに託して描く露養のダルマっていう、 足の筋に乗って帰る姿と。 そして今の石切りのダルマと言って、 靴を片方だけ履いてるとか、 靴を片方だけ手に持ってるダルマ大使って絵になってるって感じですね。 不思議ですね。 どうして靴を片方だけ履いてたんだろうかって。 それは不思議なんですけども、 これはちょっとこじつけすぎたんですが、 伝統的な禅の世界では、 禅というのは、 空とか無ってことを大事にするわけですよね。 執着を立てってことです。 インドで発祥した仏教をダルマ大使が中国へ伝える。 でもその伝えるってことは、もちろん大勢の人を救うだけなんだけども、 その良いことであっても執着することは良くないって。 親子関係でもそうですね。 子供のことを思うあまり、 いろんなことをしてやろうと思うけども、 執着があるとやっぱりやりすぎてしまったり、 実情に合わなかったりする。 思いが余ってしまって実情に合わないことがあるんですね。 だから執着は良くないんです。 だから執着はいけないってことで、 それで執着しないっていう。 靴を両方履いてると執着だけども、 自分の足跡、自分がやった業績ですね。 それを足跡に託して、靴に託して、 自分がやったことを残すってことを、 執着しないってことで靴を脱ぐんです。 足跡を残さないぞって。 良い教えであっても、 教えを残すことに執着したら良くないぞってことで靴を脱ぐ。 だけど全部そういう執着を殴っちゃったら、 そもそも不協もはかざらないですね。 やっぱりどこかで執着があるから不協するわけですよ。 だから人を救おう、教えを説こうという思いは大事だけれども、 執着しないといけないって。 そんな難しい微妙な関係性を表すために、 靴を片っぽ脱いで姿にしたっていう説がありますね。 # 達磨大師と弟子たち そしてもう一つ、これはやっぱり同じく慶徳前奏曲にある物語なんですが、 ダラマ大使、もう自分の寿命がなくなるということをよく知っていたために、これからペルシャへ帰ると。 弟子たちを呼び集めるんですね。弟子たちと最後に、私はもう去るが、お前はどうするんだということで、 弟子たちの修行がどこまで進んだかというのを点検するんですね。その物語が残っているんです。 それで修行者の道服という人が、お前はどうなんだ、どう自分の私の教えを理解したんだと言ったら、 我が所見によれば、文字に習せず、文字を離れずして、道優を成す。 こう自分がダラマ大使から学んだことを説明するんですね。 先生に向かってこう言うんです。私が先生から得た悟りの内容を言うと、 それは文字に習せず、だから言葉に執着してはいけないということですと。 同時に文字を離れず。文字に執着してはいけないけれども、文字を捨ててしまうわけでもない。 そして道優を成す。道を持ち寄りで書くんですけれども、その上で修行をしっかり行うんだ、 これがダラマ大使、あなた様から学んだことですと答えた。 そしたらダラマ大使はこの答えに対して、 「汝は我が革を得たり、お前はじゃあ私のこの革を得ることができたぞ。」 そんな風に仰ったんですね。 次に女性の修行者、仁相さん。 掃除という名前の仁相さんがやる。 掃除師の、今外市の掃除師が鶴見にありますけれども、その掃除師の掃除ですね。 この仁相さんがどう答えたか。 「我が今開始するところは、景気の圧縮物国を見て、一見して、さらに再見してだるが如し。」 と答えたんですね。 で、この仁相さんも掃除ってどういうことを言ったかって。 景気というのはアナン尊者のことですね。 アナン尊者がその悟るの世界をパッと見たって。 ああ、やっとこの悟ったんだっていう風に思う。 救済の世界を見るんだけども、パッと見て二度見しないってことですね。 アナン尊者というのは、こういう気持ちだったと。 お釈迦様の導きによって悟るの世界を見た。圧縮物国を見た。 悟るの世界を見たんだけど、普通だったら、わあ素晴らしいなって何度も何度も悟るの世界を見たいと思うんだけど、 もうでも心が既に清らかなので、一回見て、はっとこの素晴らしさがわかったら、もう二度見も三度見もしないって。 そんな風に、見ること、悟ることに対する執着を、悟ることを通じて断ち切った。 悟るの体験を得ても、ああいい体験だった、また見たい、また見たいって執着するっていうのは、 これはちょっとどこかずれてるんですよね。 執着になってしまってはよくないです。だから、パッと、本当のサソルデラはですよ、 パッと見た瞬間に、素晴らしいなと思うんだけど、もう二度見三度見もしないって。 それが本能の姿ではないかって。いいことであっても執着しないっていうのが大事なんですよね。 そこで今みたいな教示を唱えた。 これに対してダルゴ太子は、汝は我が肉を得たり、肉を得たりって。 代わりの次に、このソウジという人はもっと深くダルゴ太子を理解したって。 だから、お前はわしの肉を得たぞって。より深くこの踏み込んだぞっておっしゃったんですね。 三番目に道易という弟子が答えます。 死骸はもとより空。死骸っていうのは、私たちの体を形成している、あるいは宇宙を形成している四つの元素ですね。 血水、火風、土、水、火、風って。死骸はもとより空。 そういったものは、最初からもともと空なんだ。 私たちは世界にさまざまなものがあると言っているけれども、あるというふうに見えるだけで、本来は空なんだ。 迷っていて執着するから存在するように見えるけれど、三番目くらい見れば空なんだぞ。 御運は有にあらす。見たり聞いたり感じたり思ったりって。 そういうふうに世界はあると思うんだけど、もともとあるわけじゃない。本当は空なんだって。 私たちが執着するからあるように見えるだけなんだって。 我が賢従には一方の有べきなし。 自分が見るところでは、正しい仏法、正しい教えすらないって。 存在するものはみんな空なんだ。執着するからあるように見えるなんだ。 見たり聞いたりも、本当は空なんだ。そう執着するからあるように見えるだけなんだって。 じゃあ、仏法とはどうなんだ。全ては空だっていう仏法の教え。 そういった本当の教え、仏法とはあるのかって。 仏法も得ることができない。捕まえようと思っても、仏法は捕まえられないぞって。 神不可得という話を前回しましたけれども、捕まえようと思っても捕まえられない。 どんな良いものであっても、捕まえようと思っても捕まるものではないんだって。 それが真実なんだって。空を悟った。要するに空を耐えてこそってことですよね。 この答えに対して、ダルモ大師は、 「汝は我が骨を得たり」って。 だんだんことに行くというようになりますけれども、 皮を得た境地、肉を得た境地、骨を得た境地って、少しずつ少しずつ高まっていくんですよね。 それはどう高まっていくかというと、執着は減れば減るほど、 執着を立ちきれば立ちきればほど深く得ているということになりますよね。 最初の道復は文字を離れるって。 執着することすら離れるって。まず文字について、 執着することも執着しないことも離れるって。 それから二相さんの相次っていう人は、その境地ですよね。 自分がパッと見て、境地で誘ったと思うその境地、体験についても二度見しないぞって。 三番目の道復っていう人は、境地どころか、 ものがそもそも存在するっていうことについても、これは執着しないって。 仏法ですら執着しないっていうことにあるんですよ。 本当に空を退属しているってことですね。 仏法を通じて、つまり空という利法を通じて、 その物事に対する欲望と執着を断ち切る。 物の存在についての欲望と執着を断ち切る。 ところがその物に対する執着を断ち切るために、 自分が活用した仏法すら最後は捨てるって。 仏法すらないぞって答えるっていうのが境地なんですね。 # 達磨大師の残したもの 普通の考え方で言うならば、この空という執着を断ち切って空という境地を得る。 しかし空ということを説明する、理法ですが、仏法ですが、空だという風に断ち切る。 もうこれは究極の境地のように見えます。 実際にことに行くということで言うならば、 ダルマ太子はこの道行くという弟子に向かって、 お前は本で終えたぞ、ということを言うわけだから、 これが究極に思えるんですが、実はここで終わらないのが面白いんですね。 最後にダルマ太子の方を実際に継がれた方は、ジンコウエカという方でしたね。 実はこの3番目までは道行くという人でエカ太子は出てこないんですよ。 ジンコウエカという人は一番最後にスルスルと出て行って、どう答えたかというと、 ダルマ太子に向かって来拝をするんですね。黙って来拝をするんです。 自分の得た境地を説明なんかしないんですよ。黙って来拝をして、 そしてスルスルと下がって行って、自分のいるべき場所にパッと座ったというんですよ。 何も言わずさっと出て行って、ダルマ太子を来拝して拝んで、スルスルともてもて自分の席に帰ったというんですよ。 何もしてないんですよね。ただダルマ太子の前に出て行って、ダルマ太子を来拝して、スルスルと帰って自分の所に座った。 この様子を見てダルマ太子は大喜びされるんですね。 何時は我が骨髄を得た。ですよ。何時は我が髄を得た。骨髄です。骨髄を得た。 本当の私の言いたいことをお前は得たなって。 お釈迦様からすれば、鼻をキュッと持ち上げて、みんなに見せてた。念現未詳ですね。 その時ににっこり笑ったマガカショウと同じ様に、このダルマ太子の後を継がれたエカという人は、 ダルマ太子の前にスルスルと出て、来拝をして。 そしてさっと下がって、それをダルマ太子は喜んで、安心して後を泣かせるぞって。 お前は私の髄を得たぞ。骨髄を得たぞって言うんです。 さあこのところ、とても頑畜があるので、うだうだうだうだ喋ってもあまり良くないんですが、何が言いたかったかって。 その、もちろんあることに、あるものに執着してはいけない。執着を断ち切るって。 執着を断ち切る時に、私たちが理解してた、仏法や空という事も捨てるって事を言うんだけども、まだ仏法や空を捨てるって思っているうちはダメなんですね。 もう、そういう捨てるという境地も、かなごり捨てて、黙ってスーッと行って、来拝をして、スーッと自分の席に帰るって。 何が言いたいかというと、ダルマさん、私はこんな事分かりました。こんな風に理解しました。そんな説明なんか要らないんです。 もう全て分かっているんですよ。 ダルマ大師がもうお年を召されて、これだけ長い間、私たちのために教えをといてくださったって。 もう、いつでも、大丈夫です、ダルマ大師、いつでもお休みくださいって。 あとは、私がやりますって。黙ってスーッと行って、来拝をして、ありがとうございましたって。 あとは安心してくださいって。私がやりますって。スーッと元に戻ったって。 いつでも準備はできています。 ダルマ大師がいつ、この世を去られても、いつ、教えを解くことをやめられても、もう私が非力だから、やらせておきますから、ご安心くださいって。 黙って行動で、それを示したんですね。 お釈迦様が亡くなる時には、こういう風に、ありがとうございましたと言って、来拝をして、黙って横に、はべっているべき、阿難尊者が、まだ不十分だったので、大泣きをするんですよ。 どうしたらいいんですか。私は悟っていませんからって、泣くんだけども、これに対して、全く違いますね。 この神光絵画は、準備ができていたから、黙ってスーッと、感謝と、恩礼の拝をして、そして、スーッと自分の席へ、座って、スタンバイするんです。 これが、ダルマ大師が最後に仏法を伝えたということですね。 お釈迦様と違って、ダルマ大師は、実はこのように、素晴らしい弟子に恵まれた。 最後は、独卒で亡くなられたのかどうか、分かりませんが、ダルマ大師の方は、仏法は、教えは、確かに中国の大地に根を付けた。 でも、その根を付ける付け方というのは、仏法が残ったとか、続いたとか、そんなのではないんですよね。 黙って来拝して、さっとさやる。そんな執着すべき、ダルマさんの教えなんかない。仏法なんかない。そこまでいかなきゃ、本当じゃないということですね。 そのことを伝える、その微妙なことを伝えるために、ダルマさんは、泣きがらがない。 でも、泣いわけじゃない。靴は片っぽある。でも、靴に執着しない。教えに執着しない。だから、靴は片っぽしかない。 良いものであっても、執着してはいけないという教えですね。 # 終わりのあいさつ さて、今日も長い時間お聞きいただきまして、誠にありがとうございました。 どうぞ良い一日をお過ごしください。 もっと見る #達磨大師 #禅の道 禅僧と考える...日々の暮らしから人生までプレミアム放送配信中!00:101.初めのあいさつ04:312.宗教は怖いもの?05:473.達磨大師滅後のもの語り06:164.達磨大師と弟子たち04:315.達磨大師の残したもの00:106.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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