TOPライフスタイルメンタル・心理学禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで#621 人生を考える...見返りを求める心は悪いものなのか?②13:33 8月11日 261再生 問題を報告する 再生する シェアする 引き続き、「見返りを求める心』について考えます。AI目次成果なき努力がもたらす心の葛藤とは見返りを求める心が持つ本質的な意味エゴが招く見返りへの期待とその落とし穴モヤモヤから怒りへ感情が高ぶるメカニズム感情に振り回されない心のあり方とはAI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ おはようございます。 山梨県の公衆誌、田倉信玄公のご大臣、 縁入の入職を務めております古川周玄と申します。 今日もどうぞよろしくお願いいたします。 # 努力しても手応えが帰ってこない 今日は、昨日に引き続き人生を考えるということで、見返りを求める心は悪いものなのかという話をしたいと思います。 昨日は、見返りを求める心が良いのか悪いのかということで、悩んだりするきっかけというのは、多くの場合は人間関係の中で生まれてくるという話が入口のところにありました。 自分が何かしてあげたのに、ちゃんとお礼を言ってもらえないとか、帰ってこないという時に、ガッカリする自分にガッカリしちゃったり、そんなことが入口にある。 私自身が見返りを求める心というのが、とても重大な問題、重要な問題だと思うきっかけというのは、 むしろ、修行道場にいた時に、その道場の修行って、やってもやってもなかなか答えが出ない。やってもやってもなかなか成果が出ない。 自分が前へ進んでいるという手応えもない、実感もない。ともかく叱られるばかりだし、やってもやっても全然進歩を感じられない。 1年も2年も3年もかけて、1年前の修行僧になった時に何が起こるかというと、実は叱られなくなって、どびしろがなくなって、本当の修行者の暮らしになったら、同じことを繰り返すだけで、そこに実感がない。 だから、こんなことを続けていてもダメじゃないのかな、こんなことをやっていても自分が変わるのかな、と。 ダラマ大師は、9年間、洞窟の中で座禅をしたと言うじゃないですか。面壁9年、壁に向かって9年間座っていたと言うんだけど、9年間、半寝をしているようにずっと座り続けているんですよ。 その中で、何か心の進歩というものを手ごたつしてあったんだろうか、と。 お釈迦様は、悟りまでの間、6年間修行したけれども、座禅の繰り返しなんですよね。座禅の繰り返しをずっと続けていって、本当に体を壊して倒れてしまって、 それまでの自分のやり方がダメだと分かって、それまでのやり方をガッと改めて、そしてやっと最後のところで悟りを開くことができたんですよ。 お釈迦様は、その6年間、全然進歩しない中で、足掻き続けて、足掻き続けて、6年ですよね。そんなことがある。 無聞観というテキスト、禅の語録を残している、無聞以外の禅師という方も、無という禅門度、公安に取り付いていて、何のせいかも出ないまま、ずっと苦しみ続けて、 やっぱり同じく6年間苦しみ続けて、ずっと進歩がない中で、耐え続けて、耐え続けて、忍び続けて、そしてある時、ガラッと悟りを開いた。 修行の世界って実は、以前に修行の行の字が、技と書く場合の修行と、行う方の修行ってあるってお話をしましたよね。 技の方の修行というのは、スキルを身に付けるわけだから、やっていけばどんどんスキルが上がっていくんですよ。少しずつでもスキルが上がっていくんですよね。 でも、行う方の修行というのは、例えば宗教上の修行、悟りを目指す修行とかに関しては、スキルがあるものと違うから、やってもやっても進歩が見えないんです。 ある時、ハッと気づく。ガラッとわかる。ある時、ガラガラガラッと一挙に答えが出るんだけど、それまでは全然進歩しないんです。全然うんともすんともないんですよね。 だから焦るし、イライラするし、ガッカリするし、楽談するし、ずっとやっても前へ進まない。むしろイライラして心が荒んでくるから、どんどん自分が悪くなってくるんですよ。 私も経験したんです。ずっと業をやっていて、辛いのを我慢して、耐えてずっとやっているのに、全然自分が変わらないし、進歩がないから、だんだんだんだん痩せくれて、これは出勤して間違っていたかなって。 ずっとそのまま好きな勉強を続けていたら、進歩はしたのに、こんなんどんどんどんどんどん自分は時間が経っていくし、こんなふうに荒んでいる自分が嫌になっちゃっていて、修行道場に来て失敗したかなって、ぐらぐら迷ったということがあるんですね。 # 「見返りを求める心」そのものは悪いことではない ですから、昨日もお話ししましたように、なんでこんなに苦しいんだろうって思っている時に、 これ結局自分が見返りを求めるから悪いんだって、見返りを求めるから苦しいんだって気づいたんです。 でも、努力して見返りがなかったら、修行に励む理由がないじゃないですか。 そんなんだったら、まだ好きなことをした方がいいよなって、その思いの中でグラグラグラグラ、最初の何年かはグラグラグラグラ揺れてましたね。 5年目くらいまではグラグラグラグラ揺れながら、本当に修行に専念できないような状態で、迷いながら迷いながら、それが正直、今思うと正直なところなんですよね。 それで私自身の経験からすると、修行がなんとかそういう風に踊り舞いに来たって全然進歩しない、壁にぶつかって全く進歩しない、 一通り修行僧としてできるようになって、怒られないように、一時満の修行僧として当たり前のことが当たり前にできるようになったときに、 そこでずっと行き詰まっちゃって、何の進歩もない自分にイライラして、心が荒んでいる状態から前へ一歩半歩かな、 あんまり進んだことはなかったんだけど、進んだような気ができたのは、今のこのモヤモヤ、努力しているのにその答えが返ってこないっていうものを、 見返りを求めるから悪いんだって気づいても、どうしてもその思いが助けられなかったんだけど、それをなんとかかんとか自分で克服できるようになりつつあってから、 逆にその気持ちをなんとか克服しようになったときに、逆に少しずつ少しずつ修行が前に進んだって、その経験があるんですよね。 だからこれは私ははっきり言いたいことなんですけども、見返りを求める心って、苦しみの原因となってますよね。 私もそうだったんですよ。こんなに努力してるのに返ってこないって。 だけどそれ実は誰もが持ってるんです。誰もが持ってるんですよ。 そもそも修行するってこと自体が成果を求めて修行するわけですよね。 まあ悟りなんてすごいものがないとしても、私の場合は自分の人生の苦しみからなんとか脱却したいって、なんとか前へ進みたいと思って、 まあそれは見返りじゃないですか。それを求めて行に来てるわけだから、誰もが持ってるし、それがなかったらそもそも修行にすらならないんですよ。 で、見返りを求める心は悪いものかっていうと、それ自体は悪くはないですよ。 それは間違いないです。悪くはないです。見返りを求める心なければそもそも何も始まりませんし、続かないですよね。 それ自体は悪くない。もともと見返りを求める心が生まれてしまうのはなぜかというと、 やっぱり応報とか応集っていう概念があるじゃないですか。やったら報いがあるって。 それは因果関係がそうですよね。何かやったら何かが返ってくるって。 人間って因果関係の中でものを考える習慣がついてるから、因果関係ってこれをすればああなる、あれをすればこうなるというのがあるから、 やったことが当然返ってくるわけですよ。それは当然のことだし、そういうふうにして物事を考える習慣が人間にはついてるから、 そう考えるのが当たり前です。むしろそれをやめることはできないですよね。 で、因果応報って言うじゃないですか。因果応報ってことは、見返りを求める思いと裏返したんですよ。 まあ因果応報ってときには、良いことも悪いことも込み込みで考えちゃうから、 自業自得ってことですよね。良いことも悪いことも、あの込み込みで考えるときの考え方ですよ。 で、その中で、その見返りを求める思いというのは、良いことだけ求めたいと思う。 まあそういうことですよね。でも、どうしても人間というのは、良いことだけ求めようと思ったらどうしたかというと、 そもそも悪いことをしようと思ってないわけですよ。地獄に落ちようと思って悪いことをする人間なんかいないじゃないですか。 だからやるときに、良い結果になりますように、良いことになりますようにと思ってやるわけだから、やっぱり良いことに返ってきて欲しいわけじゃないですか。 だから、この見返りを求める心自体が悪いわけではないんです。そこは最初に確認しておきたいんですよね。 # もやもやから、イライラ、そして怒りへ じゃあ何が問題なのか。それはその見返りを求めて、良い結果を求めて行動する。ここまでは悪いものではないです。 ただそれが返ってくるかどうかってことは、そもそも自分の目算でこうすればこういう良い答えが出るよね、こうすればこういう良い結果が出るよねって自分だけの、自分の目から見た偏った一方的な目算でやってるわけだから、その通りになることもあるし、ならないことも多い。 自分が気がつかない背後の因果関係って山ほどあるわけですよ。自分の目から見るときにはそれしか見えてないですよね。 でも他人から見たらまた違って見えてくる。別の人から見たらまた違って見えてくるわけですよ。いろんな因果が絡まってるんです。自分が気がついてるのは自分の目から見た因果関係しか見えてこないわけですよね。 だからかなう時もあればかなわない時もあるわけです。 だからもうごぶごぶのつもりでいればいいんですよね。 だけど自分から見た因果関係で行動して、自分から見た因果関係で見返りがあると思い込んでるっていう、自分の目線からしか見えてないってことに気がつかないで、もやもやするっていうところに、そもそも問題が発生し始めてるわけですよ。 だからこれは確実です、正しいですって。例えば誰かに悪いことされたって。自分からしてればそういう理屈もある。第三者が見ても確かに自分は正しくて相手が間違ってるってみんなが言うとしても、相手には相手の意見があるわけですよね。 だから自分の思い通りに振る舞ってこらないことがあったとしても起こり得るんです。いいかどうかは別です。それぞれみんな自分の利益で自分の目線で動いてるわけだから、みんなそうなってるからぶつかることがあるわけですよ。 だからあくまでも正しいかどうかってことを別にして、自分の目線からしか予想してない状態で見返りを求めてて、外れることはあるってことは知っておいた方がいいんですね。 でも社会の中でみんなが納得できるような社会にするためにルールを作る。だから正しいか間違ってるかってことについて社会規範というのを設けたりルールを作って、できるだけその見返りを求める心が正しい人に正しく答えがあるように、間違ってる人には間違った方に因果を本なるように社会ではルールを設けて、そういう風にしてできるだけ実現してるようにしてるけど、そんなのは所詮は人間の取り決めだから限界があるわけですよ。 だから見返りがちゃんとあるかどうかってこと、求める気持ち自体はいいけど、それが必ず返るべきだってそこまで強く思い込みをはじめた瞬間に、そこに自分勝手のエゴが張り込んでくるわけですよ。 だからその見返りを求める心が負担になった時に、どっかに負担になるというのはなぜかというと、どっかに自分の見返りを求める目算が偏った、自分からだけ見た目算だってことに気づいてなくて、そこを飛び越えちゃって、こうあるべきこうあるべきって自分なりの理屈をたくさんくっつけちゃって、だから叶うべきだって自分で理屈をつけて、自分で苦しんでるだけだって。 だからモヤモヤするっていうのは、どっかでゴリ押しをしてるって、見返りを求める心自体は悪くないんだけど、それをゴリ押ししようとするところに問題があるって、そういうふうに気づくってことが大事なんですよね。 だから何か良いことを求めてやるわけですよ、行動するわけじゃないですか。最初から見返りを求めるってあんまり良くないですからね。 そうじゃなくて、まず最初に良いことをしようと思って、良く、良かると思って行動をするって、自分のためにも周りのためにも良かると思って行動をするって、それは潜在的に見返りを求める心が動いてしまいます。 それ自体はいいんですよ。ただ、その結果としてうまくいかなかったときに、モヤモヤし始めるってことは、どっかでエゴが頭を持たせてきてるんですよ。 それがだんだんだんだん、気持ちが負担になってきて、苦しみになってきてって、さあどんどんどんどんエゴが肥大化していきます。 そろそろ、この見返りを求める心が、悪い、悪しきエゴを、自分都合を喚起してるわけですよ。 さあそれが怒りに発展してきたり、がっかりに発展してきたり、落胆に発展してきたりして、特に怒りに発展してきたら、もうそれは、多分、自分をゴリ押ししようとする思いですよね。 正しいかどうかとは別に、叶うかどうかなんて、叶わないかと言ったらしい怒りを持つっていうのは、まあ、正当な理由があるにしても、誰のためにもならないんです。 そもそも人間っていうのは、無力なもので、愚かなものだから、思い通りになんかならないんですね。 そこが、分かってないと、どうしても正論を振りかざして、イライラして怒る。で、怒ってイライラすることが、自分のためになるかっていうと、ならないですよね。 そんなふうにして、イライラ、モヤモヤ、怒りって、こういうふうに心が動く、この怒りへと向かっていく感情が、どんどんどんどん高ぶっていく、その感情の高ぶりへの動きが悪いんです。 見返りを求める思いが、それの原因となっているんだけど、その感情の高ぶりに動いていかないように、心をトレーニングするというのが、多分、あるべき姿なんですね。 # 終わりのあいさつ さて、今日もお聞きいただきまして、誠にありがとうございました。 どうぞ、良い一日をお過ごしください。 もっと見る #人生を考える #見返りを求める心 #見返りを求める心は悪いものなのか 禅僧と考える...日々の暮らしから人生までプレミアム放送配信中!00:151.初めのあいさつ04:072.努力しても手応えが帰ってこない04:003.「見返りを求める心」そのものは悪いことではない05:054.もやもやから、イライラ、そして怒りへ00:095.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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