TOPライフスタイルメンタル・心理学禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで#624 人生を考える...見返りを求める心は悪いものなのか?④13:39 8月17日 295再生 問題を報告する 再生する シェアする 引き続き、「見返りを求める心」について考えます。AI目次「見返りを求める心」悪か善か?感情に足をすくわれぬ心の鍛錬法「布施行」がもたらす自己成長の鍵因果応報の真実と見えない見返り親切が巡り巡る人間関係の法則AI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ おはようございます。山梨県の公衆誌、武田信玄公の母大臣、エレンジの住職を務めております古川修憲と申します。 今日もどうぞよろしくお願いいたします。 # 前回までのまとめ 今日は、「人生を考える」ということで、「見返りを求める心は悪いものなのか?」というお話の4回目になります。 先週3回目までお話ししたんですが、今日が最終回になります。 見返りを求める心そのものが悪いものではないということは、繰り返しお話ししました。 そもそも、見返りを求める心というのは、因果応報ということなんですよね。 因果のことを考えているから、それ自体は正しい考え方なんです。 因果応報というのは仏教の考え方ですからね。 だから、良いことも悪いことも因果応報なんです。 これ自体は悪いことではないんですよ。 ただ、人間はどうしても良いことを求めるから、そこに欲望と執着がくっつきやすいんですよね。 でも、欲望と執着は確かにくっつきやすいものではあるけれど、 そもそも、良かると思って人間って行動するんです。 良かると思って努力するって。 良くないところに気がついたら直すって。 より良くなろうと思って努力すること。 このこと自体は、確かに欲望と執着を与えてますよ。 でも、それがなかったら、そもそも人間って欲望のままに、ほっといても欲望と執着って動いてますからね。 ほっといても欲望と執着動いてるんですよ。 良かると思わなくたって、欲望と執着を与えてます。 もう人間ってのは、何しなくても欲望と執着で動いてるんですよ。 それはもう、生存本能もあるんですよね。 お腹もすくって、暑い寒いがあるって。 命ってそういうものなんですよね。 欲望がないと生きていかないんです。 だから、ほっといても欲望と執着が動く。 だから、見返りを求める心の中に動いている良かると思う心そのものも、 これは悪いなんて言ったら、そもそも命を否定することになってしまうんですよ。 だから、それ自体は悪いわけではない。 ただ、見返りを求める心の中に、良かると思って求めるものの中に、迷いへと導く、 自分のエゴを思い通りにしたいと思っちゃうエゴを、 肥大化させていくような要素がある。 そういう要素に気づいて、そういう要素を大きくしないように、 そういう要素に心を持っていかれないように、 足を救われないように、心を開けることが大事なのであって。 強いて言うならば、見返りを求める心そのものは悪くないんだけども、 その心がモヤモヤを見出した時に、思い通りにならないという欲望と執着が強く強く起こり始めていて、 それが負担や苦しみだった瞬間に大きく上がってきて、 怒りだった時には、もうどうにもならない。 怒りまで至ってしまった状態を迷いと言います。 もう怒りまで来ると、たぶん恐らく冷静な判断ができないから、 もう自分の心の統御、制御なんかできないから、もう外に出ることはできませんよね。 頭を冷やすまではどうにもならないです。 それこそ迷いの極致じゃないですか。 だからそんな風にして、迷いって頭が振り切っちゃう前に、断ち切るためにどうしたらいいか。 さあ、これも繰り返しお話ししましたが、断ち切るのは集中力の力が必要です。 火に、まあ怒りの炎、火油で怒りを炎と立てますけども、 水をかけて消す、あるいは強い風で消すって、水に値するようなもの、 強い風に値するようなものは強い集中力ですけど、そんなものはなかなか持ってないから、 どうするかというと、それ以上広がらないように取り合わないこと。 それが一番いい。取り合わないために一番いい方法は、 感情が動いたなと思った瞬間に、心の方向性をパッと変えるって。 忘れていなかったことにして、違うこと、もっと集中できるように、 別なことにして心を振り向けるって、そういうことをお話ししました。 # 「布施行」を心がけて それから、自分自身の周りでやってることが自分自身に返ってこないって、そういうものとは別に、人間関係の中で、その相手が自分の思うように振る舞ってくれないって、面白すぎだとか、全然自分のことを見てくれないって、自分勝手だって思っちゃってイライラするお話をしましたね。 でも、自分自身ですら、自分のことですら予想が外れて、自分の本当の姿も分からないし、自分の目から自分の生きることですらちゃんと見えないのに、他人はやっぱり自分の意思を持ってますから、もっと予想通りにいかないはずですよね。 だからそこに、他人が自分の思うように動いてくれてるって思うことっていうのは、自分自身がやったことに自分でちゃんと答えが出るっていうこと以上に、やっぱりもっと難しいってことを、これは知恵だってお話をしましたよね。 で、むしろ、それに気づかせてもらえるって思った方がいいってお話をしましたよね。 相手が自分の思い通りになってくれないときに、感情がパッと立ち上がってくるんだけど、取り合わないことです。そうじゃなくて、そういうふうに相手が振る舞う。 それは相手がどう考えてるかって、しかもそういうふうに振る舞う相手はどんな人かって、相手の考え方や人柄が見えるって。 ひょっとすると、よくよく観察してみたら、相手はそんな人じゃないんだけど、もう追い詰められて追い詰められて、余裕がないのかもしれませんし。 一見親切そうに見えるけど、本当はそうじゃなかった。冷淡な人かもしれませんし。 ここは落ち着いて冷静に、相手がどんな人かって、そういう考えることができると同時に、 自分自身がそこでイライラしたり、もやもやしたり、怒りを感じたりっていうときに、自分自身の心の癖が見えますよね。 自分自身の中にうごめてる執着が見えますよ。 そういう意味で、相手を知る、自分を知るための良い材料だって、むしろそういう風に心を振り向けて行った方がいいって。 怒ったり、もやもやしたり、イライラしたりするんじゃなくて、正体をきちっと見ようって。 きちっと落ち着いて、相手を観察して、何が起きてるかってことを見て取ろうって。 そんな風に知的な方へ、立地的な方へって心を振り向けるというのが、仏教的な考え方の進み道なんですね。 以前に、不正行ってお話をしましたね。 不正行っていうのは、六般道といって、里を開くための修行の一つでもあるし、 菩薩の四つの修行の中にも入ってますけれども、 見返りを求めず、人のために何かしてあげるっていうのを不正行と言うってお話をしましたよね。 自分から進んで、なぜ不正行をするかというと、これは今お話したように、 その感情に足を救われないための行でもあるんです。 どうしても、自分がやってあげたのに相手が返してくれないとイラッとしますよね。 イラッとした瞬間に、知恵がなくなってしまって、自分が進歩する種を自分で潰してしまうんですよ。 知恵が伴ってなかったら、人間は進歩しないんです。 感情の力を借りるだけでは進歩しないんですよ。 人間が進歩する時って必ず知恵がいるんです。 だから不正行を行うことによって、カッカ来ないこと、 感情に身を入れないことをトレーニングするために、あえて自分から進んで不正行をするんですよね。 だから普段から、不正行は心を開けるって。 普段から不正をしておくといいことがあるよ、そんなんじゃないんです。 不正行というのはあくまでも自分の修行なんですよ。 自分から進んで見返りを求めず相手に行をやっていけば、見返りがなくてもイライラしないんですよ。 見返りがなくてもイライラしないということは、いろんな思い通りにならないようなことがあったとしても、 落ち着いて冷静に分析ができて、そこから知恵を得ることができるようになる。 そうやって自分が進歩して、自分が深まっていって、自分が高まっていくんですよね。 それが修行じゃないですか。 だから不正行というのは、ある意味では繰り返しになりますが、 感情に足をすくわれない、感情に心をもってかすらないための行でもあるって。 それははっきりと意識しておいた方がいいですよね。 # 情けは人のためならず 見返りを求める心というものの背景にあるのは、因果関係、因果応報ということですよね。 因果応報という時には、良いことも悪いことも、やっとことが返ってくるというお話でした。 見返りを求める心というのは、その中で良いことを行って良いことが返ってくるだろうという、そういう思いのことだというお話をしました。 それは因果応報ということを、良いもの、良いところからしか見ていない、片方しか見ていないということはあるんですよね。 さあ、そこでもう一度、因果応報ということを、もうちょっと深く掘り下げて考えるとどうなるかって。 実は忘れてはならないことは、こういうことなんです。 因果関係というのは、実は直接返ってきて見えるものもあれば、間接的に返ってくるものもあるわけです。 因果って私たちが思っているよりはるかに複雑なんですよね。 回り回ってって言うじゃないですか。 だから因果って実はいろんな形で、わーっと細かく細かく枝分かれしながら広がっていくものなんです。 情けは人のためならずという言葉がありますよね。 これは人に慈悲をかけると、その人が努力を怠っちゃって甘えちゃうから、やってはいけないというふうに誤解されているんですよね。 違うんですよね。 よく困っている人がいたら、助けたくないもんだから、情けは人のためならずって。 そんなふうに優しくすると、こいつがサボっちゃって、人に依存しちゃうからしないほうがいいなんて、そんなふうに間違った使い方がされたって時代が一時期ありました。 今はそんなことも言う人はいないと思いますけれども、私たちが学んでいた頃、小学校、中学校、高校生の頃にはそういうことをよく言われました。 本当は違うんですよね。 情けをかけると、それが回り回り回って自分に返ってくるよって。 情けをかけることは人のためじゃなくて、最終的には自分に返ってくることでもあるんだって、そういう因果の知恵なんです。 つまり、何かをすると直接影響が自分に見える場合もあるし、直接返ってくることもあるんだけど、でも間接的に間接的にぐるぐるぐるぐるぐるっと遠く遠く回って回って、最終的に自分に返ってくるってこともあるんです。 結構それってたくさんありますよね。 自分が誰かに影響を受けているんだけど、気がつかないうちに受けている影響って多いじゃないですか。 そんなふうにして人間って自分がやったことの影響を気がつかないうちに受けているんです。 それは良いことも悪いこともある。 で、この情けをかけるってことはどういうことかって。 普段から、例えばこの人のために何かしてあげても帰ってこないとするじゃないですか。 その時に、何だしてあげても帰ってこないからって、もうやらないって思っちゃったら、それで終わりですよね。 でも、帰ってこないけどやっぱり親切にすることは良いことなんだから、親切にしようって。 普段から思いやりがある、親切な行動を当たり前のようにやっていけば、もう全然親切を返してくれない人もいるし、自分勝手な人もいっぱいいますよ。 でも、自分自身の行動がいつもそうなっていれば、全く自分勝手に振る舞っている人よりも、良い縁を結ぶ確率ははるかに高いんですよ。 だから普段から親切な行動を当たり前にしていると、直接帰ってくることがあんまりないように見えたら、実は間接的に帰ってくるに決まってるじゃないですか。 だって普段から親切なことをしていれば、いろんな縁を結ぶんですよ。 それは直接間接、見える見えないがあるんです。 見えないところでいっぱい縁が返ってくるんですよ。 だから良い縁を結ぶことができるんです。 たくさん百発球を打って、一発しか返ってこないかもしれない。千発に一発しか返ってこないかもしれない。 でも良い縁を結ばなかったら、何にも返ってきません。でも良い縁を普段からたくさんたくさん結んでおけば、必ず返ってきますよ。 それは逆に言うと因果応報じゃないですか。だって悪いことをやっても悪いことが返ってくるんだったら、良いことをやっても返ってくるんですよ。 でも一発二発しか打たない人よりも、千発を打つ人の方が返ってくるじゃないですか。 だから大事なことは、因果というのは目に見えて返ってくるものだけではないということです。 回り回り回り回り回って、気がつかないうちに自分に返ってくるということなんです。 だから直接返ってくるものばかりではない。間接的に返ってくるものがある。すぐに返ってくるものじゃない。何年もかけてから返ってくるものもあるって。 そんなことがあるんですね。 この物語をお話しすると、私は山本修吾郎の小説を思い出すんですね。ちょっともうタイトルは忘れてしまったんですけども、 一生懸命誠実にやったのに認められない若者がやさしくなっていくんだけど、でもどうしてもやっぱり善意でやってたって。 ある時その疑いが晴れて、晴れて彼は認められるんだけど、 その彼が自分の迷惑を回復できるきっかけっていうのは、正直に誠実に作ってた彼が悪事を作ってたんですよね。 良い悪事を作ってたことが、彼の所在を明らかにするって。 そんな風にして、情けは人のためならずって。 そういう風に返ってくるって物語を山本修吾郎先生が書いておられましたね。 山本修吾郎の話って、そういう仏教的なトーンがあるから私は大好きです。 ちなみに私は山本修吾郎の大ファンで、作品は全部読んでます。 # 終わりのあいさつ さて、今日もお聞きいただきまして、誠にありがとうございました。 どうぞ、良い一日をお過ごしください。 もっと見る #布施行 #人生を考える #情けは人の為ならず #見返りを求める心は悪いものなのか 禅僧と考える...日々の暮らしから人生までプレミアム放送配信中!00:141.初めのあいさつ03:462.前回までのまとめ04:063.「布施行」を心がけて05:254.情けは人のためならず00:095.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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