TOPトーク専門家リベラルアーツ探究実践Radio【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』アナロジー編48:53 2025年1月28日 154再生 問題を報告する 再生する シェアする すっかり定番になったいきなり生放送。同じ校舎で同時に授業が終わる第4火曜日21:00以降に放送される傾向アリ。AI目次4歳児と時系列、因果関係の捉え方の違いデジタルメディアが子供たちの認識に与える影響ロジカル思考と魔術的思考、そのバランス言葉の呪術性と生放送の臨場感アナロジー思考と知性、創造性の源泉AI文字起こし(β版) # 【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』アナロジー編 みなさん、こんばんは。 ヤハギです。そして、 チカウチです。 というわけですね。 ヤハギとチカウチが、 仕事終わりに突然、 生放送をするコーナーという感じに、 前回ぐらいからなってきてますけども、 第2回?第3回? 教養と哲学を考えるラジオっていう、 たてつけでは、 5、6回やってると思うんだけども、 いきなり生放送やろうぜ、 みたいなノリは2回目。 お疲れ様でした。 いきなりもう、 頭からお疲れ様でしたって、 どうなのよって感じですけども、 我々今授業がちょうど終わったところで、 生徒たちを送り出して、 一服しながら雑談を、 いつもするわけですけども、 せっかくだから雑談を、 垂れ流していこうぜというね、 その雑談の中に教養と哲学を、 感じられるかどうかは皆さん次第というね。 最近は僕は教養と哲学と、 マジックとロジックっていう、 さらにその、 そこもつながってると思うんですけど、 僕最近たまたま読んだ本で、 発達神秘みたいな話の部分が書いてある本が、 急に出てきてて、 そこで、 人間って先見性というキーワードで、 未来を思い描きたり、 過去のリアルな経験をすぐに思い出せるっていう、 他の動物にはない特徴があるっていう論調の本で、 そこで4歳児になると、 朝の出来事、お昼の出来事、夜の出来事みたいに、 時系列がちゃんと理解できるようになるって書いてあったんですよ。 てことは4歳になる前の子供たちって、 時系列という発想がともと、 そもそもぐちゃぐちゃなのかもしれないと。 はいはいはい、なるほど。 で、そうなると何が問題かっていうと、 起こった出来事の順番がぐちゃぐちゃってことは、 原因と結果っていう因果の関係性の把握が、 すごくマジカルなものに。 つまり例えば、チョコ食べて美味しかった、 美味しかったなって思ったっていうのが、 普通の時系列じゃないですか。 でももし子供の中で、4歳より未満の子供が、 もしこれが時系列がぐちゃぐちゃだとすると、 チョコ美味しいって思ったら、 その後チョコが食べれたっていう、 奇跡のような経験になる。 僕らはチョコ食べた、だから美味しいっていうのを思ってる。 でも話は逆に、美味しいと思う感覚がある。 その後にチョコを食べるという、 親がチョコをくれたっていう経験だと、 思い描いたことが実現できたみたいな、 原因と結果がひっくり返るだけで相当、 僕らの世界認識とは真逆の、 祈ったら実現したみたいなことが、 もしかしたら、ちっちゃい子供たちの感覚の中に、 思い描いたら実現できたっていうのが、 その原因と結果が逆だと、時系列が逆になったり、 しっちゃかめっちゃかになってるんだとすると、 相当僕らとは全く違う世界を見てる。 じゃないかって思って。 なるほどね。 本質的にはそうなんだと思う。 思うんだけれども、 最近の子供はそうではなくなってきてると思う。 なんでかっていうと、 何か出来事があった時に、 時系列で捉えるっていうことは、 僕も子供たちは苦手だと見てる。 特に幼児は。 何かが起こった時に、 だからみたいな使い方だとか、 だからを覚えた頃のだからの使い方が、 だからになってないみたいなのっていうのは、 やっぱり3歳児4歳児見てると、 すごいあるわけ。 なんだけれども、 たぶん起こったことの記憶を、 ちゃんとその時系列ごとに 制御することが苦手っていうか、 そっちに注意が行ってないとか、 脳が働いてないから、 因果率が難しくなってくるんだけれども、 最近の子たちはその記憶っていうものを 外部化するっていうことが普通になってきていて、 例えばうちの子なんかもそうだけども、 カメラロールめっちゃ見るのよ。 で、そうすると時系列で並んでるんだよ。 カメラロールがね。 そうすると確認できるんだよね。 これの後にこうなって、 これの後にこうなってんだみたいな。 だから危ういながらも、 時系列を、 外に委ねているっていうか、 外部化できていることによって、 割と子どもたちも魔術がなくなってきてるな、 っていうところはあるんじゃないかなと思う。 学習というか調整が、 多分普通のかつての人類よりも、 時系列の学習というか、 時系列の調整して、 誠徳的なものから肯定的な獲得するまでのスパンが 短くなってくる。 その外部化できた何かの装置によって。 そうそうそうそう。 だからそれがなんか良し悪しなのかな。 だからやっぱり昔の子に比べたら ロジカルな部分ってあると思うんだよね。 なるほどね。 で、多分今の若者と呼ばれてる年代の人たちも、 そういう環境で育ってるから、 ロジカルさゆえの、 なんだろう、 熱くなさみたいなところってあると思うんだよね。 ちゃんとロジカルに考えてるから、 いやいやいや偉くなったら責任を負わなければいけないでしょ、 それは自分にとってハッピーではないんです、みたいな 考え方って実はロジカルじゃん、すごく。 自分のウェルビーみたいなものもしっかり捉えられてるわけだし、 だからよくわからないものに対して熱く突っ走るぜ、みたいなことって、 実はロジカルじゃないからこそできるし、 で、突っ走れるからこそ稀に成功したりとか、 してドラマチックになるわけだと思うんだけれども、 だからその辺は、 俺はやっぱり記憶の外部化っていうか、 デジタルメディアの影響が出てんじゃないのかなっていう気はするな。 なんかロジカルというかクロノロジカルっていうのがあるじゃないですか、 時間、一直線の時間の? なんだっけ、あともう一個の回路的な時間か、 もっと円環的な時間っていう言い方をね、 小川君代さんも指摘してて、 どうしてもやっぱケアというのは、 クロノロジカルな一直線的な時間的なものでは捉えられにくくて、 やっぱり回路的な、循環的な時間の中に多分ケアというものが生まれるやすいんだ、 確かそんなことをおっしゃってて、 それってある意味時系列を並べれる、 言い換えるとそこからロジカル、 こうなってこうなってこうなって、 だからこうなるっていう前提、 ある出来事という前提から結論を導けるっていうものって、 すごく良いロジカルなものは一早く、 人生の早い段階で習得できるっていいように感じるんだけど、 それってやっぱり熱っていうか、 良い粗熱も取れてしまうというか、 クールになってしまうっていう。 クールになっちゃうと思うんだよね。 結局魔術期を経て、 魔術的な体感を経た上でロジカルが入ってくるっていう方が、 僕らの世代にとっては自然なんだと思う。 結局ハッピーかどうかって、 それぞれの世代、それぞれの個人によって違って全然いいから、 そこはこっちのが幸せだとかっていうつもりは全然ないけれども、 でも確実に変化はしてきてるよね。 やっぱり僕、子供って時系列がうちゃくちゃ、 4歳になると時系列通りに出来事を並べ、 順番に想起できるようになるっていうような瞬間に、 4歳よりちっちゃい子って、 出来事、どれが原因で結果っていうのがぐちゃぐちゃなんだろうっていうのを考えたときに、 だから松尾弓は小さい頃は神様がいてって言うんだなって思って。 松尾弓も作詞人や文学者、文学作家的な能力、才能だっていうならば、 ああいう人たちって人間の充実性っていうものを、 端的にポッて多分把握できるんでしょうね。 でも時系クロノロジカルに一直線で僕らと捉えてないフェーズがあって、 特に夢とかってまさにそうです。 時系列とか夢の中の無意識のレベルって多分相当一直線じゃないし、 意味が混ざるし。 だから音楽やってる人間はすごい分かりやすいと思うんだよ。 っていうのはやっぱりライブっていうのは、 もちろん準備もするし、作り込みもするし、練習もするんだけれども、 でもやっぱり今ここっていうのをものすごく感じるわけだよ。 たぶん授業とかでもライブみたいにやってる人っていうのは それをすごい感じるわけだよね。 だから観客がどういう反応であっても これを喋るんだみたいな話ではないじゃないですか。 あああそこ盛り上がってるけどこっち盛り上がってねえとか、 とにかくいろいろな機微みたいなものを感じながらやるんだよね。 それって今ここに集中してるっていう体感が長いと、 もう魔術の世界にいるのよ。 今ここで目線をそっちにやったら そっちの方の熱量が変わったみたいなことっていうのは もう本当に瞬間瞬間、刹那の連続なんだよね。 その刹那の連続、 刹那が魔術的なのであれば 刹那の連続っていうのが儀式になっていくんだろうし、 じゃあその刹那をどのように構築していったら 構造化していくのかっていう話もそうだし、 構造化すると今度はそこにロジックがある。 大気的でローカルな微小の幅の刹那と刹那の関係性だったものが もうちょっと長くなってきて、 そうすると因果らしく、因果とかロジックになるかな。 なると今度は大事な部分が抜けていくわけじゃん。 境外化が始まる。 やっぱりその部分、ピタゴラス的に言ったら 3から4になった瞬間に それはフォーマットが決まって浸透し始めるけれども 死が始まるんだよっていう話だけれども。 刹那から離れちゃダメなのよ。 僕は現場主義だっていうのはやっぱりそこにあって ちょっと抽象的なポジションになっただけで 死に始めるなみたいな感覚があるし、 死ぬの怖いしね。 やりたいことがあるうちにね。 死ぬという表現で、僕でいうと 生き生きしたものがなくなるっていう。 あの感覚で僕はいかにこの社会に 生き生きしたものを取り戻すのかっていう時に いろいろ考えていて、そうすると 一番抽象化するとマジックを復権させるしかないだろうっていう。 それをいきなり僕がマジックって大事だねって言ったら やばいじゃないですか。伝わんない。 その心はっていうのが相当言わないといけない。 だからやっぱり僕ゾウヨっていうことを 最初に本で書いてそこからのデビューしたっていうのは すごく戦略として正しくて あの話って全然ある意味ロジカルに読めるけど よく読むとめっちゃパッションで書いてるじゃんと。 待ってゾウヨってめっちゃマジカルじゃないっていう。 人からもらった瞬間に物が物じゃなくなるって あの辺の言い方ってやっぱりこれマジックじゃんっていう。 ロジカルに考えたらこれは市場価値でいうと 一回使用しちゃった、あるいは封を開けたから 市場価値として落ちるはずなのにむしろ 軽量不可能なものに変わる。金額が付けられないものに変わる。 人によってしかも。 あれってマジカルじゃんっていう風に言えば 多分すごくシームレスに マジックってあるね。僕らの心のすぐそこに マジックがあるっていうのって 割とあの入り方をすると ゾウヨってマジックでしょっていうのって 割と結果的にすごく戦略的にいい流れだった気がする。 逆に言うとゾウヨを論じたから僕がマジックってキーワードに 受術に引き寄せられている。 なんか俺はそっちな気がするな。 もちろん素養はあったんだろうけれども そう言語化したからそれが そこと繋がっていったっていう 構造化が起きているような気がするな。 出会った頃のTさんはそんなに 魔獣スティックじゃなかったもん。 極めてシティ。 として勝っちゃった。 シーズンシップ。 今ここっていう言い方で みんな理解してる人が多いかなと思うんだけれども 刹那であるとか そう考えると 魔術性がどこで失われたのかっていう 一番最初の転換点っていうのは やっぱ文字化っていうか文字なわけで エクリチュールっていうものを もう一回捉え直すっていうのは 魔術を見る上ではすごい大事だよね。 日本語で言うんだったら 僕も正解のない教室で書きましたけども ことっていう言葉がどういうことなのか。 言葉のことと出来事のこと。 こととことというのは 昔は同じであって 言葉というのは事件だったんだ。 何か発したら その瞬間の出来事でしかない。 文字はアーカイブできちゃうんだけれども 喋ってる言葉っていう 生放送で喋ってる言葉を 生放送で聞いてくれてる方にしか 呪術は発動しない。 この瞬間が同期してるからね。 アーカイブを後から聞いてしまうと その呪術性っていうのは どんどんめべりしていってしまうし 声であったとしても。 伊津俊彦 言語と呪術を読み終わったんですけど あそこでも言ってるのは なぜ言葉パロールというものが 大事かっていうときに なんで呪術性があるかというと 声というのは息なんだと。 吐き出される息であって それが担保されてるから 言葉っていう発話された言葉っていう つまり彼はずっとね 言語って書くときに 必ずフリーガンダムでスピーチって書いてあるんですよね。 英語で書いてたやつが翻訳されてるから 彼は多分言語ってときに 必ずスピーチなどが ラングエッジっていうか スピーチつまり発話ですよね。 呪術性ってずっと書いてあって それはつまり息なんだと。 確かに僕らは 死っていう言葉はだいたい遠距離的な 全部表現なんですけど 隠れるとかいろんな言い方するけど 息を引き取るっていう 息が消えるってことは息がなくなるってことは 生命力がなくなるということであって 呼気っていうものに 息が これはこっちで 生放送なのでね なんとか性っていう感じですけどね じゃあちょっとなんとかしてもらいましょうかね あれコード出してるの? いやそれがないんですよ今 ちょっとじゃあ ヤギさんが行っちゃったんで僕が繋ぐしかないんですけど なんだろうな あ、通りました まあそういうことが起こるのも 生放送っていうことでね 呼気っていうの 要はなんだろうな 言葉が 言葉の風 風属性なんだよね言葉っていうのはね 風属性っていう風に 考えたときに 動詞でしかない 存在が定着して しまうと風じゃなくなっちゃうわけで そうしたら当然振る舞いであるとか 影響っていうのは変わってくる に違いないってことは直感で わかるんだけれども まあでもなんか なんだろうな うーん その辺の どっちの方がいいとかじゃないんだけど 全然種類違うんだぜっていうところって 今あんまり認知されてないよね うん あとだからやっぱ文章のリズムが いいねっていうのがみんなあんまピンとこないっていうか ほとんど 僕結構割と自分でやっぱ 自分で文章直すときってリズム悪いときなんですよね 急にジャってブレーキ踏んじゃったみたいなときに 語尾がおかしいなってときに 文法的におかしいかどうかって 僕結構見てなくて それはだってある程度ちゃんとした媒体だったらね 高越の人が 明らかに日本語としての綴りがおかしいとか だったらあれなんですけどやっぱ僕は音で捉えるんで 例えば僕は これから生きてゆくとかっていうときに 必ずイは行くはユにするんですよ 必ず 僕の中でイって音だときつくて ゆくのユっていう音の方が 僕の中ではしっくりくるから 全部ゆくっていう イじゃなくて ひらがなのユを書くんだけど たまに構成で直されるんだけど俺が直し返す ここはユなんですっていう そういう音に対するこだわりっていうのは 割と やっぱあります 音楽していいかどうかってリズムとか それもやっぱり 自分に向けて語られてるときに 発話スピーチだと 絶対スピーチで自分に向けて明らかに 目の前の人が喋ってるわけじゃないですか 文字って別に自分が受け取り手じゃない可能性がある だから文字テキストでもすごく 語りかけてるかのような文章ってまさに 私に向けてこの人が訴えてる っていう圧になるというかエネルギーに変わる っていうのはあると思う それのいいポイントはやっぱ音 明らかに今目の前の人が喋ってる音に 聞こえるっていうような 文字が音に聞こえるっていう文章じゃないと 多分 論理を超えたものが伝わらない 論理を超えるんだよ生きるっていうのは エネルギーであるっていうことなわけで それはもう エネルギーなものでなければ 成り立たないわけでね やっぱりハードにしてしまった文字 テキストっていうのは ある意味もう動いてない 死物というか死んだものというかね 化石化されていくものというか そこに生きて話して考えてる人が 心があった人がいたという痕跡になってて 生き出したそのものではなくなるというかね そうなんだよね 痕跡なんだよね ヨーロタケさんで言う情報なんですよね 情報 痕跡だから 情報だから古びないと 一回録音したものはいつまで経っても 本人がどれくらい年老いても 音声の中の自分というものは 若い時のままの声だっていう 松岡聖吾のインタースコアみたいなものも そうなんだけどね そのひっかき傷みたいなものというかね 傷として残っている 本跡は残っている そこに生命力があるのか ちょっと謎だよね 増えるわかめみたいに それを今度は受け取り手が水で戻さないといけない というか 受け取り手が 生命力がある人が受け取れれば それを再び活物に変えられるというか 増えるわかめ コラボレーションをするということじゃない 多分音読をするというのは 息を吹き返すための 儀式みたいなところはあるよね 水で戻してくれている 作者の詩ってまさにその通りで 作者の詩は テキストあるいは目の前で発話されたものが 作者の声なんですよ でもテキストは 増えるわかめのように 水で戻した質の力だと思うんですよ だから受け取り手が その言葉を お便りいただきました ラジオネームにゃおさんからいただきました 近内さんの高校の同窓生です あ、同窓生です お名前を見つけて嬉しくなりました 応援していますということで 怖いですね 僕の黒歴史を知るはず少ない 黒歴史かどうかわからないけど ありがとうございます 黒歴史の生徒はクラスメイトではない 学年が同じだったのかな 僕の高校は3年間クラス内がないので 自分のクラスか自分のクラスじゃないから そうかそうか 単人も変わらないので 部活での交流しか外部のクラスとやりとりがない 体育の一緒とか あったりするけど 高校の時からこんな感じだったんですかね 喋ってたとは思いますけど そんなに変わらないよね わかんないけど俺は高校時代の 知らないので いきなり魔術が発動しましたね 今日結構魔術発動するんで 電話が鳴って 発動したし 意外なメールで 予定調和じゃないじゃない 予定調和じゃないことが起きた時に 我々は揺さぶられるんですよ 揺さぶられるものっていうのを 覗いたものが基本的にテクストデータじゃないですか それも編集しちゃったり 綺麗にしちゃうわけで 今ここで動いてる時間の中で 起こることっていうか ハプニングも含めてね その中にこそ 充実性があるというか マジカルな部分というものがある それに絶対に触発させて我々は 話すことが変わってるんですよ 間違いなく それができる人とできない人って何なんでしょうね やっぱり幻想に囚われてる はあると思うんだよね メタ認知が済んでないというかね こうやらなければならないっていうのが浅いとこなのかな ならなければならないなのかな どうだろう やっぱ一番上位の目的は固定されてて 例えば今日だったら 聞いてる人とともに この場を作るっていうのが僕の一番大きな目標 何を話すかじゃなくて 聞いてくれてる人と時間をともにして 僕らも僕らで 聞いてる人も聞いてる人で 生き生きとするっていうのが 僕の中で一番上位の目的 そうすると話す内容は別に 何でもいいっちゃいい 伝えたいメッセージがあるんです っていうのが最上位目標になっちゃうと どうしてもそのために 何か今を犠牲にしないと 進行しない部分が出てくるんだよね よっぽど運が良くないと この場は何話そうとか っていうのは別に ないので 雑談しよっか テーマはなんとなく 喋ってる中で出てくるけれども それについて 今日この場で話し切らなければいけないんです みたいなことは一切ないわけじゃない 余白だよね 余白でもあるし 余裕でもあると思うし 例えば 今伝えたいことが 今日中にあったとして 今ここで伝わらなくても 永遠にそれを伝えていこうという意思が 我々にはあると じゃあ別に長い時間かけて伝えていけばいいし 遠回りになっても 逆に遠回りの方が伝わる っていうこともあるかもしれないし それはこういう インタラクティブなやり取りだとか インターフォーミングの中で うよ刻折を経て その方がむしろ伝わるような内容を 確かに今日は話してるわけだよね これが理路整然と 話せてしまっていたら 果たして伝わるだろうかっていう 推進力が弱いメッセージだ気がするんですよね 貫通力が弱いというか 遠くまで届くものとかって まさにさっき言った生き生きとしたものって 弱まらない? っていうところはあると思う あとやっぱり 形式とか 話題を決める人って多分ね オーディエンスとか聞いてる人をバカにしてると思うんですよね 信じてない聞いてる人も 全部説明しきらないと分かってもらえないっていう でもやっぱ僕らの授業って 多分分かんないけど 今日なんかすっげードキドキしましたっていうのが 授業として多分生徒の リアクションが一番嬉しいというか 内容は別にこうかなと思って なんか今日の授業すっごいなんか なんか帰ったらこれ調べてみたくなりましたみたいな まさにアフォーダンスが その子の周りのアフォーダンス 世界のアフォーダンスが切り替わったっていうのも とかっていうのが一番重要だと思ってて だから理解するかどうかは 一個の手段の一つでしかなくて 理解できなかったけどなんかすごいって感じた っていうのってすごく大事なものであって なんかその人に話を聞いてもらえる 立場にいる人は それを最低限やるべきだと思ってて それはもうそうだよね 自分たちだってそうなわけじゃん なんかこの話すげーなとかこの人すごいな っていうそのなんだろうな でもそのすごいっていうのが なんだろうな 優劣とかそういう話じゃないんだよね だから小学生に対して すげーなって思うこともあるし だからそれ対象が誰であっても 物であっても何でもいいけれども なんかすげーなって思うことだよね だからこっちがそういうマインドでいれば そういう風に思ってくれる人もいるかもしれないし 相互にそういう インタラクティブな すげーなすげーなみたいな関係があったら それってね 理想的な関係かもしれないし だから僕らってコミュニケーションって 意味という情報の伝達って 4割ぐらいで 下手すぎて3割ぐらいで 残りの7割って多分音の交換をしてると思うんすよね なんか リズムの交換って なんか この人喋ってて気持ちいいなって人って リズムがいいからなんすよ BPMが合ってるという BPMが合ってるはある グループが乗るこの人ってだからね まさにウッドベースとピアノの コラボみたいな感じで こいつとやると噛み合うなみたいな なんかね みんなだから内容の情報の伝達を 意識しすぎてると思ってて もっといい音を鳴らせば相手も 乗ってきて思わずこういう リズムで叩いてくれるよ そうすると 本人も思いも揺らないね 言葉が出てきたりするんだよ 授業なんかもまさにそうで それぞれの生徒が みんないろんな楽器を持ってていろんな音を出してくれるんだけど そういうタイミングで そういう音を出す人なのねっていうのを こっちが全部把握することによって じゃあこのテンポでこの曲だったらみんな乗れるんじゃね? っていうのを提案できるわけじゃない みんなも一緒に釣られて 一緒のハーモニー奏でたくなる みんなの最適解 音楽理論みたいなレベルの感じ このBPMだと みんなもちゃんと乗れるみたいな この子にとってはちょうど倍のスピード この子にとってはちょうど半分のスピードだから 結局このリズムだとみんな合うだろうみたいな そこで 生徒の話を聞いたら 警長って言葉もあるけど 相手のリズムに耳をすますっていうのが 最低限だった 言ってることは別にあんまり関係なくて リズムとして首をうなずくとか うんって言うとか そうだね 情報のやりとりじゃないと思うんですよね 一番突き詰める 何が心地いいか 情報のやりとりじゃねえんだよっていうところで言うと 例えば 昨日のフジテレビの会見だとかも あれって情報のやりとりじゃなくて やっぱり生放送だったことに すごく意味があったというか 呪術性を帯びたんだよ やっぱり神体性というか神的的なものがあった そうそうそうそう 双方が生放送で 生放送ってすごいんだよっていうことが 分からせたっていうか 再確認できるイベントとしては 良かったんじゃないの?と思うんだけど そうそうだからさっきの 情報の伝達ではないんだけども 相手のリズムを聞くことによって 一つメタな情報がやりとりされてるっていうか ここに生身の神体を持った人間が 息を使って話をしてるっていう 神体に由来するものを このリズムで このコードでこの和音で このタイミングでこういう風に こいつは鳴らしたり叩いたり弾いたりする やつであるという情報は受け取ってる気がする それがだから 上手くいくかいかないのかっていうことは 二の次にいいと思う だから思想としては 音楽理論にちゃんと乗ってなければいけない みたいなのって すごく孔子的な考え方だと思う 孔子の生命みたいなのは とにかく言葉を正しく使いましょうよ っていうところから スタートしてるんだけども 僕は相次の方 相次と孔子は両輪だと思う 相次は何を言ったかというと 表現的な 表現って言っても 伝統芸能の表現とは違うけれども 要は 本気で思っていることがある じゃあその時に 例えばこれ小さに聞きたかったんだけど じゃあ本気で思ったことがあるんだけど 言葉がないんだったら 沈黙しなければいけないのかどうか問題 っていうのがあるわけですよ 暴れるんですよ もがく暴れる だけど 相次はそうじゃなかったんだよ もう違くていいから 何か言えや 相次の考え方で だから狂ってんだよ 言葉が狂ってるから表現なんだけど でも本気で思っていて 言いたいことがある でも正確な言葉がわかんない わかんないけど黙ってられないから 何か言うんだって言った言葉って 俺は意味があると思うし そこは ウィトゲンシュタイン的にはどうだろう ウィトゲンシュタインは 前期ウィトゲンシュタインだと それはただの沈黙なんですけど 暴れてるんだから ただ後期ウィトゲンシュタインであれば 暴れるということによって言語ゲームを こいつは切り替えると それぐらいの何かがあったという形で おそらく言語ゲームが切り替わるということによって 示される何かがある とぐらいはウィトゲンシュタインは言うでしょうね 俺はそこに アナロジーを感じてるわけで 結局 正しい言葉じゃない言葉が 何か発露された時点で そこでアナロジーのトリガーが 引かれるかどうかっていうところに かかってるだろうなと思って 結局アナロジーで 費用なわけじゃん じゃあその費用的なものになっているかどうか そういうトークンとして 捉えられるような 言葉になっているのかどうか っていうことで一気に 俺はむしろ生命というか 正しい言葉を使うよりも 激しく広がる可能性 っていうのがあるだろうなと思って 意味じゃないんですよね 意味とか情報じゃないんですよね 意味とか情報じゃない もちろん全否定しちゃうと何にもなっちゃうんだけど そういう部分が やっぱり ロマンだったり ドラマチックだったりとか っていうものと無縁ではなかろうし 今日もともとアナロジーについて 喋りたいですっていうのをね 事前に言ってたんだけども 僕今の話でいうと 言葉と身振りみたいな あるいはその表現 の間に僕風景とかランドスケープ ってものがあると思ってる 例えばあるお話を聞くと僕らは ランドスケープが出てくるわけ それは徘徊の世界観ですよ 言葉によって触発されて その頭の中に心とか 情景を喚起する 共有できる情景のようなものが 巨大するんですよ メタファーとかも 結局機能を突き詰める 喚起するとか ランドスケープ風景を 提示する しかもその言葉によって 共通のランドスケープが その魂の中に共通に 発生させるという呪術 僕最近アナロジーって マジックの部分と ロジックの部分が両方入ってるのが アナロジーだなと思って これをホワイトボードに書くの 頑張って音声で すごいな ホワイトボード使いだしたぞこの人 僕この前とあるところで 人間関係って何かと 特に恋愛とか親子関係とか ジャム作りと同じであるというアナロジーを考えたんですよ ジャム作り これをこっちにいってこれジャム作り 人間関係とはジャム作りのようなものだ その心は ここでつまり 焦ってすぐにジャムを作りたくて 火を強くしちゃうと 焦げるじゃないですか 人間関係もだから焦って 特に恋愛とか親子関係とか 焦ってああだこうだすると ジャムが甘くなることを通り越して 苦くなる ジャムが焦げてしまう っていうところにつまり ここがまた人間関係の話に戻ってくる だから同じように 同様に人間関係にも 放っておいても火をかけていれば煮詰まっていくんだと 放っておいてもね ここがマジックで ここがロジックだと すごいここって ここを使うでしょ っていうね 皆さん カタカナのコ コの形を 半時計回りに 90度回転させたような図を イメージしていただきたいんですよね 同じっていう感じの中身を取った 門構えじゃなくて 門構えみたいに 形して人間関係から上に ジャム作りって矢印が伸びて ジャム作りってところから横に矢印が 右に矢印が 右に矢印が伸びて また下に戻ってくる これ人間関係とジャム作りって同じ形だよね ここが飛躍じゃないですか 飛躍だね でもジャムってさ 砂糖を入れて適切に火をかけていれば 自然とジャムになってきますよね つまり自然と人間関係って ちゃんとジャムに 一つの形になっていくよね でもそれを焦って強火にしてしまったり 酷くかけ混ぜてしまうと ジャムが焦げてしまったり苦くなったりして ジャム作りにならないよねと ジャム作りに失敗するよねと 同様に人間関係 特に恋愛だとか親子関係 切羽詰ったような 不安とか恐怖に駆られたり 不安に駆られるような人間関係 親子この子がちゃんと一人で生きていけるようにとか 恋愛でも 相手が本当に自分のことを思ってくれてるのかな 焦って 深く介入してしまう 深く介入するっていうのが ジャム作りっていうと火を強めてしまうみたいな ショートカットすることが合理的じゃないって話 タイミングというか ジャムを煮詰めるには 煮詰めるだけの時間と 火のかけ方と手つきがあると なるほど でもほっておけばジャムは火にかけて 勝手に煮詰まっていくんですよちゃんと 人間関係も 共にいて共に言語ゲームを続けていれば ちゃんと関係性が特別な関係になっていくんだから そうそうそうそう 結局ね続けることが大事だから 人間関係ってどんな関係でも 続いてれば続いてるほど ちゃんとしてくるのよ それとジャム作りと同じじゃないですか 前に僕が人間関係を考えたら ジャム作りだと思ったんだよね 僕これの得意技で 人間関係とジャム作りって 何の関係があるんですかって 論理が飛んでるじゃないですか ここが僕マジックとか呪術だと思うんですよね なるほどねまだにアナロジーな話だよね でも人間関係っていうもので ランドスケープが弱いんです風景が弱いんです 人間関係って言葉だと でもジャム作りって言った瞬間にみんな多分 目の前に鍋とか 木べらとか スパチュラとか 砂糖とかジャムイチゴとかの色味とか 映像で見えるんです多分きっと でそのジャムを作ってる手つき あるいはそこの丁寧に 火加減を見るこれと人間関係 それと共に生きてくって これぐらい繊細なことだし でもちゃんと火をかけ続ければ ジャムにいつかなるんだよっていう つまり余計なことをしないってことが ジャム作りで大事であるのと同様に 人間関係というのも焦って アダコーナー介入するっていうのは ろくなことにならないっていうことって 僕ジャム作りになんか感じたんですよ ここの人間関係とジャム作りが 同じであるってのはこれロジカルじゃないわけですよね ロジカルじゃないけど 僕らの知性としては多分重要な機能を 持ってるならそれは呪術マジックと 名付けるしかないかなと思って 今の話にすごい面白いというか 視察的だなって思うのは その人間関係を良くしよう っていう話にみんな直結しすぎるよね 良くしようと思うんじゃなくて この人間関係を続けていこうっていう風に 思った時に 多分ちょっと変わっていくよね 良くしようって すごいなんかもっと短絡的に なんかや、働きかけちゃうと思うんだよね でもどうやったら この人間関係長く続くかなっていう風に 考えたら長く続いたら絶対 良くなってくんだよね じゃあその長く続ける方法っていうのは 何なんだろうっていう方が 実績だよね ジャムで言うと焦って火を 水気を飛ばそうとして火を強めると 多分焦げますよと ジャムにならなくて失敗しちゃうよっていう それと同じように人間関係 というのも多分ちゃんと続けていけば 見つまっていく 俺だから資本主義でもそれは 感じていて 理想論かもしれないけれども 短絡的に儲けようとすることって ジャムが焦げるのと俺近いなと思ってて 要は社会性を 追うっていうのは ビジネスマンとして 甘いとかって言われるけれども 結局社会 みんながプラスになるというか 良いことだねって思ったらそこに 資本が投下されるというか 交換が生まれるわけじゃない みんなが良いよねとか社会のためになるよね っていうことを時間がかかっても やってればそれが多分一番大きな 変革にもなるし 大きなビジネスにも なってくんだろうなと思うんだよね 多分これを ヤキさんと二人で言ってるポイントで言うと ジャムを火にかけて 最初って沸騰もしないし煮詰まらないから 無力に感じるんですよね多分 でもちゃんと火をかけてるんだから微力で 確実に今ジャムが ジャムになろうとしてるっていうのを これが多分想像力 今このプロセスのここで火をかけてるだけだから っていうさ 今ここで焦って上からバーナーで 当てても確かに水気は飛ぶけど 適切な温度じゃないから 焦げちゃってせっかく甘いジャムになるはずが これがメタファーとして 焦げると苦くなるっていう 煮詰めると甘くなっていくっていう 関係性としてもいつかちゃんと 甘く美しいものに 変わっていくと それがちゃんと適切に 変化がないように見えるけど 今日もこの関係性が続いてるってことは 確実に甘いジャムになっていってるっていう ランドスケープ風景 人間関係に 焦っちゃダメっていう言葉 言ってるだけじゃん結局これって グーイだけ取り出せば でもこのジャム作りっていう話がないと このグーイが アレゴリーが伝わんないと思ってて 俺の中で頭の中で完全に さっきから全部ウイスキーとか ラムとかワインの話の置き換わり 僕はねそうか料理のメタファー 僕は料理のメタファーのほうが多くて 料理の中で その方が みんなに伝わるからいいんじゃない でもほら逆に上流の場合 よりピュアな液体になっていく って感じですよね アルコール度数も強くなってくると同時に 名廷するっていう 関係なんていうのかな メタファーみたいなものも入ってると同時に ピュアになっていくっていう より洗練されていくっていう感じですね 上流のイメージだと だからよく発酵の メタファーを使う人結構最近多いですよね そうだね キーワードがあるけど 発酵させるね 寝かしておく発酵させる だよね 僕はあれはだって 人間にとって有益な腐敗じゃないですか 発酵って 偶然性が強いよね たまたまそれが良かっただけで 火を ちっちゃい火をちゃんと管理して ね それは大事だね 結局腐敗でしょって感じ 風景があるから 僕はジャム作り 甘い方がいいんだよなみたいな 全部甘くなっていくみたいな 作ったことないけどさ ないんかい 角煮とか煮詰まってくない まあまあまあ ある限りしょっぱくなっちゃう ジャムはそんなに難しくないから 一回作ってみた方が説得力が増すね 作った方がいいよ 多分よっぽどのことがないから 焦げないね ちゃんとプロセスすれば 誰でもできるんだよっていう 雰囲気もあるかもね人間関係って ジャム作りってかなりシンプルな工程じゃないですか そうだね それくらい人間関係って余計な介入さえ しなければ大丈夫だよっていう そういうアナロジーを 考えて最近 ここでジャム作りに入った瞬間 ジャム作りの論理が流れるわけですよね 強火にすると焦げるとか あるいは とろ火であれば確実に甘くなっていく アナロジーって 上手い人って論理を借りてくるのが 上手いんですよね 火を撃って人間関係はジャム作りである ここだけなんですよ多分火を撃って ここからジャム作りの論理に乗っかって ジャム作りってこうなってこうなって こうなるよねそこからこういう失敗 こういう成功があり得るとか こういうのが良いジャムであるこういうのが良くないジャムである みたいなジャムの論理が完全に人間関係と 完全にマッピングというかリンクしてる っていうのが多分 アナロジーとして大事で アナロジーが得意なんですよね 何でもアナロジーすぐ作れて それってトレーニング可能 そういうモチベーションさえあれば アナロジーっていうのは 説得と納得の違いみたいな 論理ってやっぱり 論理で人を殴るから無理やり説得する 結局アナロジーの上手さだとか 日本の文化でいうとさっきも言ったけど それは記号なんだよね 前もその話題の中でありましたよね記号って 同じランドスケープを思い描くための 呪術的な言葉 それがランドスケープだけじゃなくて 完全に心情とリンクするのよ だいたい夕焼けは寂しくて美しいよね とかいうようなものが なんかあると 一言で言い表せないような 複雑な心情を 一つの情景を共有することで バッと伝えるみたいなところがあって それがすごい テクニカルに結実してるのが ハイカイの世界だったわけだよね あれさっきもそれってハイカイと同じだねって どこで柳さんおっしゃってましたっけ ランドスケープのこと アナロジーで どう 類推で伝えるみたいな アナロジカルなものだよね 結局共有できる何かっていうものが 非言語のものであるのならば じゃあ非言語をまとった 他の言語で伝えようぜっていうのが 類推だから それが アナロジーで どう 類推で伝えるみたいな というのが類推だからね それを じゃあ一つ体系化しようぜ みたいなのが記号の世界なんだよ そこから発展させるとやっぱ最近 知的活動とか知性って どちらかというと 呪術の力が 半分より多いんじゃないの と思っててだってロジックって ある前提を認めたら誰でも同じ 結論に行くのがロジックじゃないですか まあ基本的には 狭い意味の論理だよね 相当境地の形式論理学というか 面白い意味のロジックって いわない新書でも出たけど 国によって論理があるみたいな 僕はどうしても形式論理みたいなレベルの 理想的な論理みたいなのが 例えば 競技の演劇みたいなものっていうのは 同じじゃなきゃ困るっていう前提で 語ってるから 同じだよねってなるんだけども でも実際やると前提が違う ずれてるから絶対同じにならないんだよね ちゃんと組んでてもね 前提のところを風景にしてみる ってなると 意外と揃うし 意外と揃って意外とばらけるというか あとなんつうの ランドスケップを感じたんだから 人それぞれでしょうがねえかなって思えるというか あるいはなんであなたはこの言葉から そういう風景が思えないだろうって 論理ってこっちの論理が正しい そっちの論理が間違ってるっていう形で そういう論理もあるよねっていうのって 論理許容しないと思うんですよね それに対して 自主的なものって そういうような閃きというか そういうものをあなたの魂は歓喜されたんだね その言葉によって それってどういうことって もっと知りたいっていうモチベーション 間違ってる間違ってないじゃなくて 違ってるだから気になるっていう風に 良きアナロジーを思いつくって 僕すごい知性の証だと思ってて いやもうその通りだよ でもさ 今時の論文でそういう アナロジーだけで論文書くってないじゃないですか それはだって論文の 評価の 基準とずれちゃうからね でもさ論文が 一の結晶であるならば 入れてよって思うんですよ じゃもう小説書くしかねえよ だから僕はエッセイとも評論とも 詩とも通りつかない よく分かんない形の文体で 書いてるっていうのがあって 一般書っていう形だね だからちょくちょく見ると ここだけ詩を書いてるな俺とか 1行だけ書いて開業するとか っていうところとか あと普通に演劇的に書くところもあるし そこはそうだと思うよ 俺も 本書くときは全部3文字だと思って書いてるし やっぱ詩的なところがあるっていう 認知をしながら その言葉を綴っていく っていう 感覚はすごい大事だよね 詩 っていう言葉に性質のせいとか 姿勢 アカデミックな文脈に 姿勢をどう取り戻すかっていうのが そこはだからこれから先は 多分切実な問題として浮上するはずなのよ だって 詩的じゃないことはAIができるようになっちゃう そうそうそうそう そこに人間らしさって何なのって言ったときに やっぱり詩的な何かっていうものを みんな感じられるかどうかっていう ところでしょ そんなの そうしていくしかねえし だからいつからそういうさ 詩的な世界から詩みたいな 詩的性質みたいな 詩みたいなものが脱色されてったのって どこからなのかなと思ってて 割とそんな深い歴史じゃないと思う 割と最近確か 100年くらい前の物理の論文とかって 本当にわけわかんないし 思わせぶりなこと書いてあったし だからそれは オリフェイスの詩というかね 印刷技術と同時に 衰退が始まった 現象だと思うよ あとやっぱね 楽界がきれいにできたっていうのが つまりタコツの専門家が良しとされた それまでだってね まさに自然哲学っていう通りさ デカルトの方法諸説って とんでもないぐちゃぐちゃじゃないですか 最後の方生理学とかさ 心臓の話書いてあるとかさ デカルトの話って言い寄せるのが大変だもん マジであれはね 部分だけ切り取らないとダメっていうね 反物学っていうか 普通に心臓とか 当時の医学的な最先端 光学光のね 性質のことも書いてあったりとか あれを哲学書って言っていいのかなっていう 科学も ただ当時は哲学宗教 科学がぐちゃ混ぜ だけどやっぱデカルトの頃って やっぱりそういう詩的なものも当然 許容されてる あとはなんだろう 19世紀後半ぐらいからなんじゃないかな 楽界がつまり学問が枝分かれしていった 物理学は物理学 化学化学は化学生物学は生物学 あと哲学から心理学が枝分かれしたとか やっぱ19世紀後半だから やっぱ19世紀後半ぐらいから 詩の領域と アカデミー論理的な 世界の解明に向かう エビデス実証可能なものを枝分けていきましょう みたいな 150年ぐらい ぐらいの歴史であって それより前は僕らは多分 詩も霊的な感性も 哲学的な 思考も論理的な思考も 全部ない混ぜにして一個の思考体系にしたと思って そこの統合っていうものは やるべきだと そうそうやっぱ再統合はするべきなんだよ さあ 落ち着いたところで 結構喋りましたね こんな 突然の生放送にお付き合いいただき 皆さんありがとうございました というわけで 月に一回ぐらい 火曜日に なんか突然始める ヤハギ近内の 雑談コーナーでした また来月かな じゃあまた来月 お時間があったらお付き合いください 皆さんありがとうございました もっと見る #哲学 #リベラルアーツ #贈与 #ロジック #魔術 #知窓学舎 #近内悠太 #矢萩邦彦 リベラルアーツ探究実践Radio矢萩邦彦|ArsCombinator48:531.【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』アナロジー編コメント感想・質問・応援メッセージを書こう
【対談】松田雄馬×矢萩邦彦『正解のないAI教室』第1回 1時間1分・9月8日・ 45再生AI目次企画背景とAI教育への問題提起解像度高まるAI活用、中高生の現場AIポジティブ/ネガティブが招く格差「ファストAI」と「スローAI」の真価AI時代の創造性と責任の在り方
【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』アートとデザイン編 40分・9月8日・ 43再生AI目次パスポート写真に見る自己変容の軌跡軽視されるデザインの真価とはアートは問い、デザインは答え?“ずるい理論”が示す自己肯定感の正体アーティストとデザイナー、それぞれの哲学
近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』不可能性と豊かさ編 44分・8月11日・ 81再生AI目次「不可能性」から生まれる新しい可能性「できないこと」を知る自由と創造性AI時代の進路選択と「できない」こと日本におけるギャップイヤーの意義矛盾と不可能性が導く次なる境地
【本編】#13 「仮留め」のススメ[アジャイル] 8分・7月21日・ 125再生AI目次完璧主義の落とし穴とは?完成より「仮留め」のススメフィードバックで加速する成長アジャイル式「仮留め」実践術人生を軽やかに修正する秘訣
知窓学舎放課後職員室#10[夏休みの過ごし方] 41分・7月18日・ 107再生AI目次夏休み、子どもの成長を促す体験とは大手塾、先生たちの過酷な夏期講習の実情探究心を刺激する旅 サイコロとAIの活用法成長の鍵 留学体験と通学距離が与える影響夏休みの学習効果を高める時間帯戦略とは
【対談】中瀬幸子×矢萩邦彦『AI時代のリベラルアーツを考えるラジオ』#8 39分・7月14日・ 65再生AI目次教育の「変わらない」なぜ?AIと子どもの世代間ギャップ「自分軸」育成の課題と重要性AI時代に広がる仕事と生活の自由リベラルアーツを「生きる武器」に
【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』ロゴスからパトス、エートスへ編 43分・6月23日・ 131再生AI目次放送の根源?臨場感と計画性の対話ロゴス、パトス、エートスの本質とはAI時代に欠ける「魂」の正体CD回帰から見えた人類の「回復」教師の役割と教科書の「面白さ」
【対談】佐藤雄太×矢萩邦彦『AI時代のリベラルアーツを考えるラジオ』#07 58分・6月13日・ 105再生AI目次AIが変える時間の相対性とキャリア教育現場の違和感が拓く新たなキャリアAIが変えるマルチキャリアの可能性AIが変える自宅学習の未来と課題AIとリベラルアーツ:思考の本質
知窓学舎放課後職員室#9[年度初めの模試について] 50分・6月9日・ 80再生AI目次ゴールデンウィーク明けのメンタル調整術新年度模試:点数だけではない評価基準最適な模試頻度と学習計画のコツ「できたはず」問題が成長のカギ過去問で探る学校の個性と出題傾向
【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』スマートさは敵か味方か!?編 52分・5月26日・ 119再生AI目次出版業界の慣習と契約書の謎現代社会が求めるスマートさの裏側「クレバー」と「スマート」の相違人がスマートさを希求する理由AI時代に不可欠な「余計なこと」