TOPトーク専門家リベラルアーツ探究実践Radio【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』ニーチェみ編59:03 2025年2月25日 175再生 問題を報告する 再生する シェアする 第4火曜日21:10に定番化しつつある生放送。今回は「ニーチェ味を帯びてきた」と自覚した近内氏の告白から始まる60分。お楽しみ頂ければ幸いです。AI目次ニーチェ哲学への新たな接近自己決定と超人という概念構造と脱構築、そしてリベラルアーツ現代社会における呪いと祝福ニーチェ、そして人生の肯定AI文字起こし(β版) # 【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』ニーチェみ編 みなさんこんにちは。 アルスコンビネーターの柳邦彦です。 この番組では、教養とリベラルアーツをテーマに、 自由で豊かに生きていくためにはどうしたら良いのかを みなさんと考えていきたいと思っているのですが、 今日はですね、もうマンスリー企画になってまいりました。 第4火曜日、この方をゲストにお迎えしております。 近内ゆうたさんです。 よろしくお願いします。 よろしくお願いします。 ゲストじゃないよな。 レギュラーパーソナリティ。 俺の番組でパーソナリティをやってどうするんだって話じゃないよ。 自分の番組持ってるのに。 というわけでこの番組はですね、 このコーナーは教養と哲学を考えるラジオということで、 私とチーさんが、今までは不定期だったんですけども、 なんとなく定期的に第4火曜日に授業が同時に同じ場所で終わるというのを 良いことに打ち上げをしながら雑談をするのを みんなにおシェアしようという、 そういうコーナーなわけですけれども、 とりあえずこれで。 ありがとうございます。 なので参加してくださっているみなさんも 飲みながらとかゆるーく。 いつもの私の番組みたいにすごいベラベラ喋りまくるわけでないかもしれないし、 火がついちゃうといつもよりも言葉数が多いかもしれないですね。 じゃあとりあえずお疲れ様です。 今日は何についてお話しましょうかね。 いや、そもそも今日さっき事前に 今日やるので大丈夫ですかって言われて こんなこと喋りたいんですけどってメモガールに連絡したんですけど、 その手前になんで話し合いだかというと、 最近僕、ニーチェに自分がすごく接近しているのかもって感じたんですよ。 ニーチェに接近しているか危ないじゃないですか。 気をつけて気をつけて。 僕の中でも本当に勝手なイメージで ダークサイドの哲学者だと思ったんだよ、ニーチェって。 なんかすごい牽引したっていうか、 当然参照しなきゃいけないし、 ちゃんと読み込まなきゃいけないんだろうなと思ってはや20年。 あの人クソ真面目なだけだよ。 やっぱり? 俺ニーチェ好きだよ。 ニーチェがおかしくなるような社会はダメだから。 だから今の時代にニーチェがいるんだったら、 そして今の時代のニーチェにチーサンが近づいているのであれば、 健全にチーサンが生きていけるような社会にしていかないといけないって話。 チーサンが大変になってくるように。 大変になってきたら大変だからね。 ニーチェとニーチェの歩んだ先を俺も目指すんだなんて言ったら多分、 今のデフォルトのままだとこの社会だと大変なことになる。 大変なことになる。 もちろんニーチェはずっと人気というかあるけど、 もう一回リバイバルじゃなくて流れくるんじゃないかなって気がして。 それは僕もSDGs的な流れだとか、今の若い世代の意見だとか聞いてると、 昔だったらニーチェみたいなものの考え方って社会性が欠如してるとか、 そういうふうな見られ方してたけど、 全然この人が言ってることがまともじゃねえとか、 むしろそれに近いんですけどって人は今どんどん増えてると思うんだよね。 だとしたらニーチェ的な思想の人たちが、 健全に楽しく愉快に暮らしている社会っていうものが理想の一つの形態だと思うから。 あんまりそういう文脈で話されないけど、 世の中的にも言われないけど、 ニーチェってある意味アナキズムの思想のまんまというか、 超人なんてのはまさにアナキズム、アナキストのことの別名ぐらい。 そうですね。もうまさにそうですね。 最後まで頑張ってほしかったけどね。 でもやっぱり頑張れなかったっていうことにも一つニーチェが残した歴史的意義があるのかなっていうふうに 捉えたほうがポジティブなので。 やっぱり僕2冊目書いて、 言ってることをよく考えたらこれニーチェとすごく接近してるような、 社会が用意した言語ゲーム、社会が用意したシステムとかコードとかルールっていうものは、 それは道徳であって、 我々に必要なっていうか、人に人にが生き生きとするためには、 俺はこれをするんだ、俺はこれをしなければならないっていう一人称のもと、 覚悟を持って何か、話者と関わるってニーチェじゃん。 結局自分軸っていう話なわべじゃん。そこはハイレガーだとかもそうだけども、 今ね、実は私、次の本作ってるんですね。 多分5月に出版できるかなって感じなんですけども、 その中でとある方と対談本なんですけども、対談をしてたんだけども、 自分軸っていう話にこの間もなって、 俺はやっぱり構造って何なの?っていうことをすごく、 構造主義の考え方はそもそも好きなのよ。 そういうふうに社会を捉えるといいなと思ってるんだけども、 でも一方で構造主義が言うところの構造って何なの? それってどれだけ力があるの?どれだけ信憑性があるの?って考えたときに、 構造を発見したとか、こういう構造がありますよね。 なるほど、じゃあそういう構造がこの社会にはあったんだっていうふうに みんなが影響を受けてしまうのは必ずしもいいことじゃないというふうに思っていて、 そもそも構造って何なの?って言ったら言い換えたら意味なんですよ。 あるいは関係なんですよ。関係のことを構造と呼ぶよと。 じゃあその関係線を誰かがこれとこれと関係があるよね、 これとこれと関係があるよね、ここにはこういう意味があるよね、 ということでまとまった全体というものを、 境界線をなんとなく引いて作り出したものが構造であると。 あるいはシステムであると。 そうするとそこから後に出てきた人たちが、 なるほどそういう構造があるのかって言って、 その構造の中でしか物を言わなくなってしまったり、 考えられなくなっちゃったりとかしてるけども、 実際はあなたが何にも関係があると思うかどうかっていうのは あなた次第なわけじゃん。何に意味を感じるかどうかもあなた次第だから、 自分で再構造化せよっていう話なんだよね。 多分デリラが言ってるような脱構築とかもニュアンスは似てるんだろうなと思うんだけれども、 構造は便利で使えるものだと思うけれども、 あなたは別の構造でいいんだよっていうか、 別に自分でそれを活用しながら、 あなたなりの構造を捉えてみましょうよみたいな。 そのための力っていうのが、 僕が言ってるリベラルアーツっていうものに近いのかなっていう風には感じるんだよね。 今ふと聞きながら、 わりと物理学的な力学的なメタファーが正しい、 アナロジーが正しいような気がしていて、 今の話ってつまり、 安定飛行してるっていうのがまさに構造、 これが構造だよねをみんなが暗示しちゃうっていう。 でも一番大事なのは地面からテイクオフする瞬間、 つまり加速度があると僕らって身体的に今上昇してるとか今下降してるとかってわかるじゃないですか。 でもやっぱり高速運動してると、 つまり速度じゃないんですよ。 どんだけ速くたって、 高速だったら僕らは止まってるのか飛んでるのか、 地面にいるのかがわかんないわけですよね。 僕らが感じ取れるのって感覚的に体感レベルでわかるのって加速度なんですよ。 つまり今速度が上がってるとか今ブレーキがかかってるとか。 変化だよね要はね。 やっぱ構造において大事なのは構造を発見するその瞬間。 なるほど。 構造に暗中するとか、 まさにこれ多分千葉雅也さんも多分言ってるのが、 あるノリから別のノリへ遷移する、 移り変わるその瞬間っていうのがバカって言うんだと。 勉強の哲学で言ってる大山のバカになるっていうことは、 大山のはあるノリっていうものに合わなくなって、 次のノリ、次の言語ゲームに移ることっていうその瞬間。 どのような安定点に行くかじゃなくて。 それがバカっていうのは、 要はタロットにおける愚者っていうのはまさにそれなんだよね。 境界線から外に出ようとしている人間がある愚者を表してるわけだけれども、 境界線の中の人間はおいそこから出るなよと、 犬とかが行くなっていうふうに警告をしてるわけだけども、 それは境界線の中の人間の価値観なわけですね。 中の人間から言えばもう安定してるんだから、 そこからわざわざ出るなんてバカなやることだ、 それは愚者だよっていう話なんだけれども、 でも行っちゃったらその人っていうのは新しい情報だとか、 行き先の土地にはない情報をたくさん持っている人なわけで、 めちゃめちゃバリューがあるというか価値があるんだよね。 それってたぶんいわゆるジョーカーとか。 そうそう、要はジョーカーなんだよ。 同系ジョーカー、あるいはトリックスターっていうものの由来というか、 根源的な役割、ロール? つまり煮詰まっていって硬直化していくゲームとか社会とかシステムっていうものに穴を開けるというか、 まさにジョーカーってトランプゲームでもそうですよね。 盤面を一気にひっくり返すというか、 強い弱いがひっくり返ってしまうような。 意外と雑用の話として、リタとケアを論じていったらニーチェが出てきたって僕の中ですごく面白くて。 逆にそのプロセスを経ないと僕の中でニーチェという毒を解毒できなかったのかも。 薬に変わらなかったというか。 ずっと危ういものと思ったんです、ニーチェってやっぱり。 だけど今改めてニーチェの解説書というか、いろんなところに書いてある解説書の一部分にニーチェは構造主義の走りとしてのニーチェとかをパラッと読むと、 ニーチェが言っていることはめっちゃ真っ当なことっていうか、あれ、俺分かるようになってきたかもみたいな。 結局ニーチェの時代は外側だったことが、今もう内側になりつつあるんだよ。 確かにまさにキリスト教無きがとって、もうちょっとメタフォリカルに言うと、 これによりかかっていけば、すべての人生の意味がそこから派生的に出てくる。 例えばね、都内にケイヤを持つとか、ないわけじゃん今って。 タワマンに住むっていうのも相当弱い。 神様だしそんなの。 何に縋っていいのって時にやっぱり反出生主義みたいな、生まれてこない方がいいんじゃね?みたいなのが自然と出てきちゃうと思うんですよね。 そこに、当然ね、ショーペンハウアーに対する異議申し当てとしてのニーチェっていう、 ゴンゲみたいなショーペンハウアーから、ニーチェはそこに対決を挑まなければならない。 その生きる性というものを肯定するという時に、そう。 っていうところで、そこまで文脈が見えると、めっちゃニーチェ大事な人じゃんっていう風に。 そんなになんか、僕の中で程よく毒だったものが今薬になりつつある気がしてて、ニーチェが僕の中で。 まあ描かれ方もなんかね、毒のある描かれ方もされがちだったからね。 なんかそのまさに社会転覆というかね、まあもちろん価値転覆みたいなキーワードとかさ、 奴隷一揆とかさ、道徳の奴隷一揆みたいな言い方もしてるし。 なんていう、だから相当なんか、正直にリアリティを感じなかったんですよね、ニーチェの言葉というか言説というか方向、眼差しに。 なんだけど、なんか、リタとか。 僕やっぱね、超人に憧れるっていう方向性が基本やっぱあるんですよね。 でもそれって、仏教的なものとは、ある意味仏教、まあだから、 象徴仏教、定座部的なもので言うともちろん超人みたいな悟りみたいな、あるんだけど、 大象仏教的なものとの相性って当然悪いわけじゃないですか。 だったときに僕そこに引き裂かれてるんですよね。 リタケアの話って大象仏教的であるべきだと思うんだけど、 あの頃の僕の中の結末、かなり超人なんですよね、最終的に。 自分でゲームを選べ。 これこそが俺のゲームで、俺の言語ゲーム、俺の劇なんだっていうところに至ることがリタだみたいなことが落ちて、 めっちゃ超人しそうだなと思う。 でもさ、宛先のない手紙みたいなことなのであればさ、それでいいんじゃないの? その何ですかね、矛盾というか、分裂してるようにはあんま感じない? 分裂していてもしてなくても、結局受け取る人間が超人であって、 出す人間も超人であったら、別にいいんじゃないのかな。 だし、お前が超人になれって俺は言ってるわけじゃなく、 反応してくださってる方いらっしゃるのでありがとうございます。 こういう風に出るのか、反応。なるほど。 なんか、そうね、だから、 なんか、バンコクの超人団結せよ、みたいななんていうのかな。 あの、どこかに潜んでるであろう超人、ウッドビー超人に向けてのメッセージみたいな。 だから超人なんて、なんか、いっぱいいて、もうすぐにそれが超人じゃなくなってきてるわけでさ、 単狂的なものの考え方だとかっていうのも、この5年でもうガラッと変わってきて、 単狂なにそれ美味しいの?っていう返事見られるような目で見られてたわけです、最初は。 しかもそれで受験をやるなんて何言ってるんですか、この人!みたいな感じで言われてたのが、 今は別にそれいいですよね、みたいな感じになってきてる。 だから全然、当時はすごいマイノリティだったのが、今は全然マイノリティじゃなくなってきてる。 同じようなことがニーチェもそうだろうし、 結構古典読んでると思うけどね、プラモンとかなんかもそうだし、アリストテレスもそうだけども、 その時はこの人ものすごいとんがってすげえこと言ってるけども、 今こういう人いるよね、割と、その辺にっていうか。 だからそうか、超人って言っても、自分の生活のあらゆるところの価値判断を自分でやるって言ってなくて、 自分の生活のこの部分だけは譲れないみたいな、ちっちゃい超人を自分の中に買うぐらいだったらできるかもね。 超人善とするってことは結局自己決定だと思うんだよ。 だって本当に超人であれば誰かに超人と認めてほしいって話じゃないじゃん。 それはもう超人じゃないでしょ。 っていうことは自分が超人善とする生き方を自然にしている人は勝手に超人化してるわけでさ。 この部分は社会の価値基準に判断を委ねるけど、つまりお金が欲しいとかこういうところに住みたいって言うんだけど、 この生き方だけは絶対何と足りるのも触れさせないみたいなポリシーみたいなプリンシクルみたいな部分だけあれば、 でもそれも実は超人というかアナキズムじゃん。 ここは社会基準、社会の道徳に合わせると判断するけども、ここは合わせないみたいな。 それも実は自己決定が入ってますよね、たぶんね。 ここはもう社会のベタな価値基準のままでもいいやって委ねるっていうようなところ。 だから自覚的にあるってことなのかな。 合わせたい、合わせたくないからの合わせる合わせないの話だから、どこまで自覚的になるかだよね。 自覚すれば決定したことになるというかね。 メタ認知の度合いっていうのが人類全体で上がってると思うんだよね。 そうですね。その方法論だとか、あるいはいろんなものがね。 だからそのメタ認知するために、俺がなんで構造主義が好き? 構造主義が好きって言ったらちょっと語弊があるんだけども、構造を一旦捉えようとしてみる理性が好きっていうのは、 これ魔術もそうなんだけれども、構造を破るためには構造を一旦理解する必要があるわけじゃない。 ここに境界線があるなと思うからそこから飛び出てみようっていう風に、こっちでコントロールができるわけじゃない。 メタ認知ってそれに近いんだよね。 ここからここまではこの領域だなっていう風に一旦俯瞰してみて、じゃあ出ちゃえみたいなことを自由にしていくというか。 やっと今ちょっと見えた気がしてきていて、 よく内田達郎さんがよく言ってて、ただメカニズムが分からなかったからどういう風に、 どこにどういう文献に書いてあるのかなって分からなかったんだけど、 結局よく内田達郎さんが言うのが、呪いはこれが呪いであるってことがバレたら、 呪いの効力がなくなる、あるいは少なくても弱まるっていう話になった時に、 まさに今の境界線の話で、俺は今ここにがんじがらめにされてる時に、 でもあそこに境界線があって、あそこ飛び出ちゃえば関係ない駆け込み寺っていうか、 違い封建の世界があの線より向こうに広がってると思えたら、 今ここにがんじがらめになってる苦しみがだいぶニュアンス変わると思うんですよね。 あっち出ていけるじゃん、だって。 あと苦しいけど、あと100m越えちゃえば国境線を越えるから、 そしたらあそこの世界はこっちのゲームのルールとは違う世界だと思えたら、 じゃあ別に今は出ていかなくてもいいやとか、 本当にダメだったらあの線を越えてやるっていうのを思えるだけで、 今ここにいる苦しみっていうもののイメージが変わる気がするんですよ。 なるほどな。ただ今の内田さんの呪いの見解っていうのは、 言霊が生きてる時代の話をしてるんだよね。 なるほどね。 言葉と事というものが即同時であったっていう時代は、 内田さんが言っている呪いの発動の仕方っていうのはまさにその通りなんだよ。 要は呪っているという事実っていうものは、 呪っているということにおいて既に発動をしているので、 分かんない方がいい。 だけど事と事というものが引き裂かれて以降の話は、 時代の呪いっていうのは、 バレた方が効力が強くなるっていう呪いなんだよ。 そうかもね。 確かに。 一番いいのは半分開くなんだよ。呪いの一番効力が高いやつってのは。 誰かに呪われていることを知ってしまったけど、 それが誰かなんだか分からないっていう状態が一番強いんだよ。 中世以降の呪いっていうのはそっちに引っ張られているから、 呪いも時代によって全然違うんだよね。 明確な誰かはいるんだけど、それが匿名であるってことが一番強い。 一番怖いし、一番呪われてしまう。 まさにインターネットってそうですよね。 いや、そうそうそう。そうなんだよね。 発信源はいるけど、IPアドレスはあるけど、 開示請求しない限りはその呪いが解けないっていう。 例えば今の呪いだって、呪いはかつてはこうだったのが、 そこからこうなったんだよっていう呪いの構造を何となく把握するだけで、 じゃあ大丈夫だってなる人もいるわけじゃん。 やっぱりそういうものをどんどん言語化していくっていうのが、 我々の世代というか、人間らしい除霊じゃないけど、 払いもそうだけどもさ、 言語化することによって払っていく。 生命力を回復していくっていうことっていうのはすごい希望的だと思うんだよね。 これだけ言語が判断しやすいとか、使いやすいネットワークの社会においてね。 だからそうか、呪いと祝福ってそんなに現代では分かれてない気がしていて、 上手く払えたらそれは祝福になるというか、 祝福の素さと呪いの素さ、もちろん根源的に相当近いところにあるんだろうけど、 上手く払える人っていうのは祝福することもないというか、それが同時に。 でもその払う近くとしてニーチェってすごく今エネルギーのあるミサイルというか、 ドカンってワクチンとしてカンフル剤として、 現代にぶち込んでもいいような気がしていて、ニーチェって。 なんだろうな、ニーチェがすごく僕現代において、 僕の中では少なくともそうなんだけど、すごく下毒されてきて、 強い毒だったものが今程よく薬になりつつあるというか。 それは僕の体の抵抗力が上がったからなのかも分かるけど。 なるほど、ニーチェをくらっても大丈夫なのか。 ちょっとほろよいになりますね、ちょっとクラクラして気持ちよくなりますみたいな。 え、フグの毒で気持ちよくなるんだこいつみたいな。 普通知るんですけど。 分かる分かる、ニーチェなんかヘビーメタルみたいな感じだから。 でしょ、結構危ないじゃん。 入っちゃったら結構出てこれないよというか、 入る人は見かけるんだけど出てくる人がいないみたいな、館みたいな。 だったんだけど、意外ととてもとても人間くさく、 とてもとても太陽のような明るいことを言っているように見えるのに、 なんであんなに真っ暗に見えるんだろうっていう。 なんであんな真っ暗にニーチェって見えるんだろう。 やっぱりそれは最後にニーチェが孤独だったからっていう話なんだよ。 そこか、そこで僕やっぱり最後好きになれないのかもね。 ビットゲンスタイン最後ね、ちゃんとハッピーに死んでるんですよね。 そこになんかある気がするなぁ、やっぱり。 そうか、やっぱり発狂しちゃって。 発狂っていうのもさ、それは外側から発狂したって言ったわけで、 本人が発狂したっていう風に言ってるわけではないじゃない。 だから、なんていうのかな、それも分かんないよね。 何か尊重が見えたかもしれないですよ、最後ね。 そうそう、向こうにいた方がハッピーだったのかもしれないしさ。 またはその過程において少なくとも孤独であったっていう事実があって、 でもあの時代はニーチェみたいな戦い方だとか尖り方をするっていうのは孤独になるに決まってるし、 最初から孤独をはらんだ人間だったからこそああいうことを言ったりやったりしてたわけだからさ。 そこだな、たぶん。 今は俺が思うにね、ニーチェの時代にニーチェに共感できる人はいたと思うんで。 だけど繋がる術がなかったわけじゃん。 絶対数が少なかったからたぶん各国に何人かぐらいはいたと思うんでね。 だけどこの人たちとネットワークで繋がってなかったけども、 今だってニーチェみたいなことをSNSで叫んでたらニーチェみたいなやつが共感してくれると思うんでね。 そういう意味での孤独感っていうのはだいぶ今ならないというか、薄れてるんだろうな。 そういう意味でちょっと客観的に、引きで見るとちょっと、いわゆる外から見ただけで言うんだけど、 ちょっと不幸な老いたちというか、晩年というか、通俗的な意味で言うとね。 そこがやっぱり彼の何か著作というかオーラーに影を落とすのかもね。 あとは見る側が影を落としてるからね。 そういう紹介されておったのかな、日本の文脈だと特に。 オーラーは。 結局哲学者もそうだし、アーティストもそうだけど、 最後どう死んだのかっていうところで価値が確定するっていう見方をするわけじゃない。 だからそこから逆算して、で、元気だった頃はこんなこと言ってましたみたいな。 影を落とすしかない見方なんだよ。 確かに。 それがやっぱりウィトゲームスタイルはスッと入ってきたんだけど、 ニーチェはやっぱりちょっとこう、懐中電灯を持ちながら おっかなびっくりこの建物の中に入っていかなきゃなみたいな感覚が。 お前も老人状にしてやる。 ヘビメタルがかかってるっていう。 確かに。 そういうちょっとゴシック調のおどろおどろしい感じというか、 そのドクロがあるみたいな。 なんかそんなやっぱ、死の匂いもあるからこのドクコ。 いやそうだ、やっぱ孤独と死っていう匂いがある。 でもそこは広げて考えたら誰もが孤独な要素があり誰もが死ぬっていうことなんだから、 そこはそんなにおどろおどろしく描かなくてもよくねっていう。 だから僕ちょっととある解説書だけ読んだだけなんだけど、 なんでミンチがツラツストラを書いたかっていうと、 要はキリスト教に代わるものを用意しなければならないと。 じゃないとただのニヒリズムに行っちゃって、何を信じたらいいんだときに、 聖書に代わるものを俺は作るっていう思いでツラツストラを語りきを書いたと。 めっちゃ俺もわかるわそれって。 要はなんですかね、この世俗化した現代、死後の世界を信じる何か、 モチーフが相当弱まってるわけじゃないですか。 現世は苦しいけど死んだらこんだけハッピーになるとか、 死後報われるために頑張るとかっていう信憑がないわけじゃないですか。 そしたらやっぱり生まれてこないほうがよかったんじゃねっていう ハン・シュー・ショー主義って自然な季節として出てきちゃうと思ってて、 そのときにどう生きればいいかってときにニーチェはそれを予感して、 末人、つまり全部が虚無になってしまう人たちに対して何かを残すって めっちゃ愛があるじゃんと思って。 でも俺は何でもいいけど、何か今日楽しかったなとか、 何かこれ面白くね?とか、うま!これうま!みたいなのとか、 それをガンガン投げるっていうのが一番大事だなと思ってて。 授業もそうじゃない。 来世に光を見せる時代ではない。 将来楽になるよっていう話ですらリアリティがない。 じゃあ今楽しむようにしようぜ。 今楽しむをシェアできる人間って今楽しんでる人間だし、 たった今この時間この瞬間に意味を感じてる人間じゃないとシェアするのは難しいよね。 そういう意味において探求っていうキーワードが今注目されたっていうのは すごい時代の流れにも合ってるよね。 それってとてもニーチェ的じゃないですか。 ニーチェ的。 前提というか、生命感というか人生感というか、 人間の心ってそういうもんなんです。 今ここっていう。 逆算でもないし、過去でも未来でもなく今ここっていう。 意外と僕が思ってた以上にもしかしたら超人ってそんなに難しくないのかもしれない。 そう思うよ。 だって俺もニーチェが言う超人って普通じゃんって思うからね。 心のままに楽しんでたらみんな超人子供じゃんみたいな。 あれしし楽だ子供だけ順番で言うと。 子供じゃんみんな。 探求する時に子供にならなかったら探求できねえじゃん。 やばい、目の前にいる奴ら全員超人だみたいな話なわけでさ。 確かに。 そうだよね。 だから僕らも、現代人の多くも、 当然会社勤めとかミーティングの時には超人じゃないだろうけども、 ある時ふと、あ、俺今超人だっていう瞬間って出てくるよね。 だから要はそれがゾーンだったりだとかフローだったりとか呼ばれるのって、 その瞬間で超人になってるわけじゃん。 で、その超人になる瞬間だとか時間っていうものをどんどん阻害しちゃってるのが今までの教育だったよね。 せっかく超人だったものを超人じゃなくしてしまう構造があったと。 じゃあそれに気づいてそれ破ってこうぜっていうのが今やっぱ必要なことなわけだ。 だからもうこれは教育機関だけじゃなくてね。 家庭もそうだろうし、街とか地域とかもそうかもしれないしね。 だからここにきて俺は超人思想に惹かれるっていうか、 全然俺意外性ないけど。 でしょ?ってなるでしょ? そうかんて。 チーズさんは前からそういうようなこと言ってたし、 あ、ニーチェっていう名前出てくるのはほんと、あ、なるほどね。 そうなるよねっていう感じなんだけど、 俺の中ではめっちゃくちゃ昨日今日のレベルで、ニーチェだっていう。 突然だよね。今までそんなニーチェの話だけしたことがあって。 今日だってそんな話するつもりじゃなかったじゃん。 聞いてたテーマと違うこともきて。 千葉マスターの現代思想入門の中に書いてあった話でね、 ここに僕は一言物申したいって言うときに、 なんで千葉マスターの現代思想入門を手に取ったかっていうと、 ニーチェのことって書いてあったっけなって思って、 って言ってとったら全然違うところを。 なんか喋りたいなんて俺全く信用してないからさ。 タイトルに入れなかったんだけど、どうせ違うこと喋るだろうと思ったから。 それでも僕の中の本当に、昨日今日のレベルのホットポートで、 あれ?俺ニーチェじゃんっていう。 俺はニーチェじゃなくて、俺の中でニーチェが大事な人になっているっていう。 面白い面白い。 変な切り取られ感じたら大炎上するぞ。 僕ニーチェなんですよっていう。 僕にとって今とても大事な思想家・哲学者ってニーチェだったんですよ。 今省略して僕ニーチェなんですよ。 分かるよ。ニーチェ見あるよねっていうね。 いい反応いただいてますよ。ニーチェ見に。 新しい遊び場見つけたぞっていう感覚? はいはいはい。分かる分かる。 僕が本書くときにゾウヨっていう遊び場見つけて書いて、 リタケアっていう遊び場。 なんかここ掘れば宝が出てくるぞって感覚があって、ずっとなかったんですよ。 去年本出して、2作目出して。 今後どこ行こうかなっていうときに一つの遊び場が、 反思称主義ってなんかありそうっていう。 反思称主義の流れで、あれちょっと待って。 それを肯定、生きることを肯定して、ある意味反思称主義に対するカウンターだよなと。 で、確かにショーペンハワーっていうね、ある意味反思称主義の権威というか、 起点にあるような人。 現代的な意味の反思称主義とはまたちょっと違うけども、 っていうときに、僕の中でせめてカチカチって性図が結ばれていくというか、 ゾウを結んだのが昨日今日なんですよ。 そりゃそんなホットな臨場感のあるときにニーチェの話をせざるを得ないですからね。 そう、だから夜明けさんに、僕ニーチェなんですけどどう思いますって聞きたかった。 でも、いやそうだろうねって言われるだろうなって思ったけど、 僕の中ではめっちゃすごく、ニーチェだったんですよ、気づかなかったんです、今まで。 でもだから、チーさん自身はニーチェ味があるなっていうのは別に最初からそうだと思ってたけど、 でもニーチェじゃないよ。だってそんなに孤独ではないはずなのよ。 そこがだから、そこが下毒ってことなのかもしれないですね。 彼の孤独っていうものを諸に食らうと多分、 僕が20代の頃にニーチェを深く読んじゃったらニーチェの毒に当てられるというか、 もうちょっと自分の自己分析とか自己治療が終わった後にニーチェを読むと、 お、ニーチェいいこと言ってるね。 そう、だから超人になりきる前に向こう側に行っちゃったらダメなんだよ。 そうそう、そんな感じがあって、タイミングが来たっていう。 ニーチェの風が今ビュービュー吹いてるっていう。 なるほど。 それはそれは、ちょっとその風を皆さんにシェアしつつ。 ニーチェのアフォリズムっていうか、彼の言葉の力、詩的な言葉、 やっぱりあれも好きだわって。 翻訳しやすいっていうか、シンプルなんだよ。 大いなる小語とかね。 だからどんな言語にも多分翻訳しやすいだろうなっていうのはね。 端的にパッと掴める。 やっぱりその辺はウィトケジャンさんもそうだけど、 ヒールの名手というか、 彼らのイメージを喚起する才能。 だからさ、ちょっと話が変わるけど、 なんで哲学にそのイメージを喚起する言葉の力っていうものがなくなってるのかな。 それは分析哲学だけなのかな。 いや、それはね。 論文っていう形式のせいでね。 ちゃうね。 それはまた教育が悪いとかって話になっちゃうけど。 想像力を発動するときに、 本当は具体でも抽象でも同じように想像力が発動できるはずなんだけども、 今は想像力の発動の仕方が具体的なキーワードには想像力が働くけれども、 ちょっと抽象度が高くなると、 想像力が働かなくて解像度がめっちゃ低くなる傾向があると。 で、俺はそれは何が原因かと思っているかというと、 やっぱりテクスト離れだと思っているよね。 なるほどね。 文字を読んでいたらすべては想像するしかないよね。 聞かないよね。 具体だろうが、 例えば小説読んでてレンジレンジが出てきたら、 どんな電子レンジなんだろう? 全部想像しなきゃいけないわけじゃん。 シャープなのかな? タナなのかな? 白かな? グレーかな? だけど、漫画になったら絵が出てくる。 動画になったら音声も入ってしまう。 しかも動きもわかってしまう。 要は空海が密教をやるときに、 結局どこを隠したかというとそこなんだよね。 文字と現実の間の部分っていうのは、 文字だけじゃどうせ伝わらないっていうことを おそらく空海はちゃんと把握した上で文字を書いていたと思う。 だからこそ、現実を見せながら、 対話をしながら伝えることができるから これは密教をたり得るんだっていう考え方があったと思うんだよね。 だけど今はその密教が密教であった部分の動きであるとか、 色味であるとか、そういうような情報っていうのが 動画の中でなんとなくそこに入っちゃう。 本当は情報量が全然足りないから、 全くリアルとは違うのよ。 違うんだけれども受け取った場合は それをリアルとして受け取るので、 そこで解像度が高い感じになって出す。 そこから失ってしまったテクストを解凍して、 現実というものを埋めるための情報量を保管する力というのが 我々の脳にはあったはずの想像力なのに、 それがどんどん無くなっちゃってるんだと思うんだよね。 やっぱり動画ばっかり見てしまうだとかね。 そこから情報を得るっていうことの弊害っていうのが 分かりやすく出てるのが今の知事さんの問いへの 俺は一つの答えだと思ってる。 だからさ、僕ずっとやっぱり 村上春樹と河合駿はやっぱり俺は偉いと思うんですよ、この二人は。 まさに象徴?リアル? これ何を意味してるんですかっていうものを そこには何もなくて、そうじゃなくて 何かを象徴してるってことが重要であると。 っていうところは多分あの二人は共通してたんだろうな。 片屋小説、片屋箱庭、あるいは片屋カウンセリングなんだけど そこで地域通りのものではないものを いかに良きものを立ち上げるかっていう二人のプロジェクト 多分それによって我々は救われるっていうところがあるなと思ってて すごく僕もそれをやりたいんですよ。 その時に兄ちゃんのアホリズムも それに喚起する何か。 ロジックで詰めすぎじゃないっていうか。 ロジックであることは別に僕はいいと思うのね。 だけどテキストっていうロジックっていうのは やっぱりすごくシリアルなものなんだよ。 実は他にもいろんなロジックが 交差的にたくさんあるのが現実なわけだよね。 そうそうシリアルなんですよね。 俺ね、こないだ自分の本をオーディブルで朗読したじゃない。 音読したのよ。 あの時にね、やりながらすごい引き裂かれる思いがあったのよ。 一つの言説になってしまってるっていうか。 テキストを読むから。 テキストを読むじゃん。 いくら本気で全部書こうと思ってあの本も書いたけれども 全然書き切れるわけないわけよ。 書き切れないから会いに来てくれる人がいたり 授業受けに来てくれる人がいたりとか こういう風にラジオ聞いてくれる人がいたりとか いろいろいるわけじゃない。 そこはありがたいなと思ってたけども 読むことによって これ読んでアーカイブっていうことが できてしまってる感じになってしまうんだと思ったのよ。 全然オーディブルで聞いてくれたら 文字だけで、テキストだけでは伝えられてない部分は すごく伝えられてるのよ。 でも伝えられてるんだけども 同時にそこだけじゃないんだよなとか そこじゃないんだよなっていう部分を 限定して見せてしまってるのよ。 イメージでいうと立体のスカルプチャーというか 彫像があるとするじゃん。 ここが正面です。 ここから見てください。 裏面とか側面のこの彫像の顔とか 胸の筋肉の張りも見てほしいんだけど ここが正面なんで ここから見てくださいって固定されちゃったっていう。 そう。 俺がせっかく自由な視点で書いたテキストを 俺が視点を提示しちゃってるのよ。 そうだよね。 ここから見てね。 これがこの本の正面ですよ。 ここから見るが正しい この本の像なんですよっていうのを 提示しちゃってるように見えちゃう。 それで、うわー違うぞーと思いつつ でもこっちの方が伝わることもあるし この引き裂かれ方が それがすごい 本当そうですよね。 今の市場経済の中で何かを作ろうとする時に パッケージを一面的に こういうパッケージですっていう ワンヒッシュで押し切ったほうが 分かりやすいわけじゃないですか。 でもそれって別に わざわざ我々の活動として提示する作品である必要がないというか ネット上のPDFでいいじゃないかとなっちゃうわけじゃないですか。 それを作品にした以上 ただ何の本なんですか こういう本なんですとかって 分かりやすい方が リーチする側面はあると思うんだけど なんか最近さ Amazonランキングのトップ上の本にいるなんて 本当になんかさ こんなペライヒで終わる話だろみたいな本ばっかじゃん。 さっき俺独立なんすよ 独立だね 最近なんかね こんなAmazonランキング モギ経営長と対談をして 吹っ切れちゃったのかな俺も とりあえずモギさんいつも怒ってるからね あの方じゃなきゃいけないんだみたいな なんかさ 本当にだから 世の中のリペラシーってそこなのかよって思っちゃうわけ いやだからそうなんです ペライチじゃんこれ ペライチなんですよ こっちは200ページ300ページで書いたのに ペライチにならないから書いたのに だってさ ペライチで説明できないことを 提示しないでくださいって言われちゃうビジネスが いっぱいあるわけですよ ペライチで提示できないものなんて 全然ダメなんですよ そんな分かりやすいものは 人口に感謝しませんからっていうことでしょ それはだから我々がやりたいことは ペライチじゃ無理なんだっていうことを もう一回みんな思い出そうぜっていうのが 我々の活動じゃん じゃあ多くのビジネスモデルとは 相入れないよね じゃあ稼ごうとしている人たちと 組むことはすごく難しくて でもワンチャンあると思うのは すごく稼いでるんだけども 本当はこっちだっていう風に 投資したいんですよねっていう人がいたとしたら それはいけるなと思う だからペライチで いいじゃないですか 楽しいじゃないですかっていう人たちは ちょっと話にならないんだけど ペライチはできるし ペライチやるべきだと思うんだけど 何か楽しくないっていうか 何か違う気がするんですっていう人は 多分タッグ組めると思うんですよ 違和感を覚えられる人だよね ペライチの世界でやってるんだけど でもそこじゃないですよね人間って これからの社会ってっていう人は タッグ組める気がするんですよね はいはいはいはい そうだね 何なんそのペライチ ペライチで分かるものって 言う必要ないじゃん だから俺ね すごいムカついてる ムカついてる 一応チーさんがムカついて本音を言ってるんだよ 私も乗っかってムカついた本音を言いますけれども それで速読術を売ってる奴らが 気に食わなくてしょうがないんだよね いやいやいや そんな内容のない本ね 速読できんだよ アホっていう 俺でもできる そのノウハウないけどできるわ 読めねえ本があるんだよ 1週間かかってもっていう そこはね それをじゃあ速読できるんですかって 別に早く読むことが偉くもないし そのペライチで分かる内容のビジネスを 高速で読んで 何になるんだそれは いや早く読む という競争で勝ちたいんですって言うんだったら 別に止めはしないけれども 何のために読んでるのったら あんたらアップデートしたいんでしょうと じゃあそれで何でアップデートするのっていうところを やっぱ読書には俺は突き詰めて 求めてほしいのよ 本好きとしてはね まあでもだからさ それをさ一個人でやってる人は いじらしいなと思うわけ 単語テスト 今日の単語テストも 10点満点だった 嬉しい 勉強楽しいっていう子供たちって 可愛いじゃないですか それしかいがですねさ 語学の本質でなかったとしても 今日もうやった分 ちゃんと点数になったんだよ よくあるのがほら 今年は何冊読みました そう俺すっげえ嫌いなのがさ 2024年のベスト本 トップ3とかで僕の本上げられるとさ 2024年だけなんだ俺の本はみたいなさ それが若干ひねくれてるけど あれこれ前のことから言われた気がする なんなんだろう 今年のベストみたいなさ なんで言いたいの この哲学書がすごいみたいな それはそこに上がったってことは だってさそういうのに物申したくて 本書いてるんだから まずは目に触れたら可能性があるわけじゃん 初点でやってるのは分かるの 反則としてやるわけで 確かに何月から何月まで出た本の中で 分かるんだけど 一個人がなんか なんかなんていうのかな 褒めてもらってるような 褒めてない気がするというか そういうことかね なるほどね分かった分かった 初点でやるのは 多分売ろうとしてくれてる企画の ヒットとしてランキングみたいなのが 分かるんだけど なんていうのかな なんで今年何冊読みましたって 言うのかなと思って そこら辺も数で言ってる人とかいるよね そうかそうか それは分かるな 別にあれがやめろとか 増えへんだろうじゃなくて どういうことで何冊読んだって 言いたいんだろうなと思って それで似たような話だと思うんだけど 俺結構その おすすめの本を教えてくださいって やっぱすごい言われるのよ いやたくさん読んでるんですよね じゃあおすすめの本を教えてください っていう風に 結構パブリックな場とか イベントとかでも そういう質問がたまに来るんだけど いやいやいや 全員に向けておすすめの本なんて 存在しないんだよって話であって まずお前の説明をしろと お前がどういう状況で どういう問いを持ってたりとか だったらあなたには これがいいかもしれないはあるけど だから俺すごいの言われんの なんで八幡さんそんなに本読んでんのに SNSだとかで本の紹介 全くしないですよねみたいな できないんだもんだって だっておすすめできる人とできない人がいるし 読んだほうがいい人と読まないほうがいい人がいるし そんなおいそれとこの本よかったです なんてそんな無責任なこと言えませんよって話で 誰にでもいい本って ないよね それほどニーテだってさ 読まないほうがいい人いっぱいいるじゃん しんどい人もいるだろうし 読んでも全然分かんない 僕もだから20年前読んだら分かんなかったのよ 今俺たぶんニーチェが今 スッと入ってくるっていう ニーチェがスッと入ってくる 気がしていて やっぱタイミング 本って本当に僕はタイミングだと思ってて 読むべきタイミングってあると思ってて だからそういう感覚があるから だから今年何冊読んだって タイミングが来たかどうかだから あんま関係ないっていうか そういうのがありますね なるほどね そんなわけで 一切せずに 一応喋ろうと思ってたことあるのね じゃあ次回に回します 頑張ってやります 一言だけ あと5分10分くらいはいける ちなみに生放送の マックスが90分まで増えたんですよ そうなんだ やらんけど60分くらいまでなら いける ちばんまさやさんの 現代思想にも ニーチェについて何か書いてあったかなと思って たまたま今日手に取ったら 結局ニーチェは大学から 干されたんだみたいなことが書いてある 要は 現代で言うと批評的なものを書いて 学者の道ではないと 批評の抜刀しての論断 と大学の対立があって みたいなことを書いてあった ときに 僕論断って言葉嫌いなんだよね 内輪のサークル感 親間の対照感がある 俺も論断嫌いなのよ なんで論断が嫌いかというと 完全に俺討論が嫌いだから 議論を戦わせる どっちが正しいかを決める場が嫌いなの 安撫平面する場ならいいのよ 相手が言って それって思ってみなかったけど確かにそうかもしんない じゃあこういうのどうすかみたいな 想発が起こっていくならね 対話の場ならいいんだけど 論断は対話してないことが多いから 俺の意見はこうで 立場を変えない ディベートだよね 言論会にいる人たちが みんなお互いの話を聞いて なるほど確かにそれ 一理あるよね じゃあ俺こういう風に 考え方変えようかな 柔軟性のあるような場だったら 俺も論断とか言論会に興味を持つんだけど 今全く興味を持てないのは どっちが正しいのかの話 ディベートの話になっちゃってるから そっちはそっちでやっててくださいみたいになってるんだよね もちろんそこに関わってる人の中には 対話してる人もたくさんいるのは知ってるんだけど 生徒と対話する時間なくなっちゃうから いいかなそれはと思っちゃうよね だから千葉さんは 論断か大学かみたいな そこに対立があるよって言うんだけど 僕は二個対立のものじゃなくて みんな教室 っていう場所を持てばいいんじゃないのと思ったんですよね なるほど ファブリックに 何かを伝える オーディエンスに向けて何かを伝えた時に オーディエンスからのフィードバックによって 自分の考えをちょっと修正するとか マッシュアップする 教室って出て怒るじゃないですか みんな教室ってイメージが 一方的に 偉い先生が生徒たちに何かを伝えてるってイメージかもしれない 単純的なことやってる我々からすると 教育ってすげえ 完全なる双方向で どっちが偉いとか もちろん知識はあるのかもしれないんだけど 一言言った生徒の発言の方が 今日この発言がベストで 俺の言ってる言葉よりも 今日この子の言ったこれを広げた方が絶対いいみたいな 全然あるじゃないですか それってだから僕は教室っていうメタファーだと思って ロンドンでも大学でもなく 僕は教室にいるんだよなと思って 居場所というか 近いうちはどこにいるんですか 何をやってるんですか いろんな場所に僕は教室を作ってるんだと思いますみたいな すごい でも 授業準備アホみたいにする人なんですよ 1時間の授業準備するのに 3時間も4時間もする 自分の種族の共鳴族なんか 一応90分 喋る予定なのに 180分くらい喋ってるんだけど それの準備に20時間とか普通にかけんだよ そのくらい準備して望んでるんだけど 今日ね授業中に 小惑星が 2.2%の確率で 地球に2032年に当たるぜ みたいなニュース どうする 結構な確率で当たるってことになったら まだ何する 作文させたんだよね 大体どこのクラスでもこの話をすると なんとか生き延びる方法を 試みる系の人と 人生 我が人生に一片の悔いなしを目指す人と 2派に分かれるんですよね そんな中 今日ね 新5年生の 4年生の男の子が セネカを読むって言ったんですよ 人生の短さについてを とりあえず読んで過ごす それは別に悔いとかも 関係ないし とりあえずそれを読んで なるほどなと思って 待ちますみたいな すげーこと言うなこの子 と思ってさ もちろん持ってかれたのは俺だけ 持ってかれてんだよ こいつの小学生たちは 何も持ってかれてないんだけど 俺はその一言に こいつなかなか面白いな 要は色々知ってることを 喋りたいタイプで 本人も自覚あって 知ってることを喋っちゃうタイプのコミュニケーター その中でも隕石ぶつかるかもしれないよね パッとセネカが出るみたいな やっぱ変わってきてるな 人類みたいなのを感じたな 持ってかれた話だけど みたいなことがさ ロンドンでも大学 大学が教室になっていれば 県医生よりも もっとオープンな形でやってる 大学って場所の問題じゃなくて 大学的な ロンドン的大学的って対立があると思うんだけど 持ってかれちゃいけないと みんな思ってるじゃん ロンドンも大学も 県医生じゃん オーソドゥキンじゃん オーソドゥキンがあったら対話できないじゃん だから結局パブリックな場所だとか アゴラの話だよね アゴラも 難しいとこだと思うんだよ 本当に みんなに開かれた場があって 例えば今 ボイシーの生放送で オープンに話してるわけじゃん 一応これシステム的には 世界中どこからでもつけるわけでしょ アゴラ的ではあると思うんだけど みんなが聞いてるかとは違うじゃない 我々のことをなんとなく 知ってくださっている方が なんとなくたまたま 興味を持ってくださって 繋がってるっていう話でしょ 全然そこに パブリック性だとかアゴラ性だとかないと思うんだよ それってでも じゃあアゴラじゃないかと言うと アゴラってそもそもそういうところあるんだよね ローマのアゴラみたいなものってさ 結局 聖域だったんだよあれ 誰でも入れるパブリックスペースじゃなかったから なんかパブリックなものって それなりに整えられているもので 例えば裁判だとかもそう 傍聴もできますよ みんなが市民が見れますよなんだけども じゃあ誰でも自由に入れるかとはちゃうねん ちょっと日常とはちょっと違う 非日常的なエリアっていうか 向こうはちょっとまさに彼岸と彼岸でいう ちょっと聖域っていう 羽と毛でいう 毛ではない世界っていうか だから賑やかだし 行こうと思った人は入れるんだけど っていう意味では この放送なんかすごくアゴラ感はあるなと思って なんかだからさ なんでみんな物書きっていうか 自分の主義主張があると オーソリティの傘を着たがるんだろうって思ってて 僕はこの オーソリティな それは表出というものを ちょっと狭く 捉えてるんじゃないのかな だからアゴラであれば 当然 選ばれた人とか選んだ人とか そういう フィルタリングして 人が参画してくれるわけだけども みんながみんな自分に賛成してるわけじゃないじゃない だけど教室ってなんか 自分が教えなければいけないから 結局その自分の言ってることっていうものを 理解してもらえないといけないし 理解しろよと思っちゃうっていうか そういう仕事だと思ってる そういう意味では 教室っていうメタファーを考えた時に 吉田松陰がさ あの人は 明倫館で教えてたわけじゃん でも明倫館という教室は 多分嫌だったんだよ 嫌だから昇華尊塾を継いだわけでしょ だから両方教室なんだけど 全然目的と方法が違うんだよね だから教室って言い方もみんな イメージが強すぎるのか 僕はかなりフラットな ジャズセッションとかで僕がドラムを いい感じに叩くから 生徒たちが急にイメージを ベース弾き始めたみたいな 誰かがピアノに入ってきたみたいな っていう学校があれば 増えてくればすごくハッピーだよね でも探究って 本来はそれを目指してる 本来はね 今日もFacebook見てたらさ 探究の教材買いませんかみたいな 広告がめちゃくちゃ流れててさ そんな風にAIが判断して八重山のとこに来る そう AIまだまだだな と思いつつも 最近のAIやばいからね マジでAIに個性が出てきてるから だからAIと 人間のマッチングサイトが多分できる ビジネスとして 今参入したら多分儲かりますよ 皆さん 人間に近づくとか人間を超えるってことは AIに個性が出るってことだから 結局人間の数だけAIの個性だって できるはずなわけだよ でも今だってアプリケーションだとか チャットGPTを使った アプリケーションっていうのがものすごくたくさんある これってさ 教育の現場にいると 同じ現象をずっと トレースしてる感じなのよ 要は質問の仕方が わからない子たちがいっぱいいるよね 教育の現場には 質問の仕方 自分が何がわからないのか わかりました 誰に何をどういう風に質問していいのか わかりましたって言ったら その人たちは自学自習できるし 自分でどんどん成長していく これ全く同じことが AIを使える人はそれができる あんだけいろんなことを やってくれるのに 自分がわからないこともわからない やりたいこともわからない どうしてもいいかわからない どうしたらいいのかわからない どうお願いしていいかがわからない 結局昔から 今後がいいことが 変わってない案件が こういうキーワードをつけると AIがすんなりアウトプットしてくれる GPTに質問の仕方を変えるだけで 出力の精度が変わる 欲しかったものを出してくれるのは こういう条件をつけなきゃいけなかった 一言それだけで 出力が変わる それって実は 物がわからないと AIに頼れなくて リベラルアーツ的なものがないと AI使えないよね じゃあAIを使うためのサポート 機能を限定したアプリケーションであるとか サポートする役割の人 っていうのが これから先しばらくは需要がある コーシェルド的な間に立つというか そうそう もう時間ですか 言いたいことは言い終わりましたか ちなみに 今日は入ってきて お疲れ様でした 隕石の話してると思って 俺もあの隕石のニュースは結構インパクトがあって ちなみになんで超人だとかにJT出したかというと そのニュースなんです 世界が滅亡した時に それでも生まれてきてよかったと肯定する っていうのが一番でかい問いなのかも なるほど 明日地球が滅亡します でも生まれてきてよかったな この星に生まれてよかったなって これが肯定できたとしたら どこ親だけどとか貧乏だけどとか 全て解決できるくらいでかい話で まさにニーチェの 一番人間の虚無である 永劫回帰を前提としても 人間を肯定することができるかって問いと すげえ形似てるじゃんと思って はいはいはい まさに本当に 2024yr4だっけ さっき夕方の段階で ほぼ0%だったらしいですよ そこがね俺の 今回のニュースの一つの焦点だったのよ 要は数日前までNASAが1% をとってたのが2.2%に変更されて ほぼ0%になるっていう この精度についてね どう思うの皆さん っていうね まずは要は NASAってさすげえっていう印象があるけど でもそれ他の組織だとか 構造に関しても勝手に こいつらはすごいとかこいつらはすごくない っていう判断をみんなしてるんだよね NASAが言ってんだったら間違いないでしょ とか言うけれども NASAに星って何個あるんですか すごい誤差のあること言うわけじゃない そういう そこまででかいこと扱ってると それって誤差の範囲内なんだな みたいなことがあるよね っていうことをバランス感覚として 分かるっていうのが 俺の言うリベラランスの重要なポイント だったりもするんだよね そこを一つ提示したかったな っていうのとあとは やべえって何%ぐらいでなるんだろう っていう どう思います? 小学生がメインだったけども 何%ぐらいから 身の危険性が本当に落ちるんじゃないか って思い出すと思う? 多くの人たちが 1桁%で言ってると思うよ つまり1%超えたら みんな恐怖は 少なくとも恐怖は 具体的な対策を取るのは 10%超えたぐらいで 2桁%超えたら 相当リアルにみんな考えたり って思うやん だいたい50%超えないとビビらない っていう傾向があって 結構みんな うちの子たちが 図太いのかもしれないけども っていう傾向があって 色んなこと興味持って色々調べてるやつは やっぱり1%、2%やばいって言ってるんだけど 多くの子たちは 40、50、60%ぐらいの間で これは怖いって思い出した 一方で 高校生は 1%、2%ってやばくないですか? 1%、2%やばいと思うの? だってスーパーレア低く それぐらいですよね ガチャ引くレベルだから当たっちゃいますよ 結構出ますよねみたいな ただお前らは何回もできるけど 1回はこっきりだから 1回こっきりの1%だからなって そうそう その感覚面白いなと あと今回ね直径が 40mから90mぐらいって話だったから 当たり所だなって思ってましたね %とあとは 落ちるかで 日本の近くに落ちたら結構食らうけど ちょっと遠くの地球の 割と離れたところの海とかに落ちれば 津波だけ避ければ大丈夫かなみたいな 割と現実的なものを 40mから90mの小惑星で 確率が2%ってなって まあいけると思うって俺は 判断したなって感じですね ちょっと津波来たりとかエリアによってだろうな 落ちるっていう そこでそのニュースを思えた時に 竹内マリアのカムフラージュって曲を レシプールで流してた もしも世界が明日終わりを迎えても あなたがいれば怖くないって歌詞を 受けた時にすごい人生の 肯定を歌ってるのがサラッとと思ったの もしも世界が明日終わりを迎えても あなたがいれば怖くない この感覚持てたら 最強だよなって思って これはもちろん他者とかいるっていう 愛する人がいるっていう前提はあるけども 明日世界が終わるとしても 怖くないって感覚って 誰だろうって だって愛してくれる人がいるじゃなく 自分が愛する人がいればってことでしょ そうだね 自分基準 本質的に俺はハッピーなことだと思うね だから 明日世界終わるよ でもあなたがいるから怖くないって言えたら 人生の圧倒的肯定じゃんと思って そうそう しかも相手に委ねてないからね そこがアナーキーだよ これは竹内マリアが サラッと歌の中で歌ってた時に 隕石が落ちたとしても そこからすぐ映画のディープインパクト もう一回見てさ サラッと歌ってない そこで拳を回されちゃうとね 大好きって歌じゃないんだよね 実はすれ違ってて お互い同じ思いだった カムフラージュって 自分の心を隠してたみたいな 歌の中で あなたという存在がいるだけでいいんですよ 歯がくれだよ 歯がくれの武士道だよ これは 世界の終わりの中でも 人生を肯定するって ニーチェじゃんって思った なるほどね 昨日今日のレベル というわけで 今回は ニーチェについて 私ニーチェだし 近渕優太のニーチェ味が増したという お話を 1時間 お送りしましたけど どうだったでしょうか 本当に僕もニーチェすごい大好き ニーチェみたいな価値観の人が楽しく生きていく 社会にできるように 色々活動していきたいなと思っております そんなわけで こんなこと話してくれとか 質問・感想を 頂けると我々 モチベーション上がりますので 頂けると嬉しいです それでは 今日はここまでにしましょうか また次回お見にかかりましょう お題が来たぞ このタイミングで めちゃくちゃ興味深く面白かったです ありがとうございました とハッピーさんから頂きました これもチーズさんにこにこです そのだけフィードバック大事ですよね リアルタイムのね また第4火曜日は やる可能性が高いので ぜひ用意して頂ければなと思います というわけで アルコールコンビニエンサーズ ありがとうございました おやすみなさい もっと見る #哲学 #教養 #構造主義 #リベラルアーツ #ニーチェ #構造化 #近内悠太 #矢萩邦彦 リベラルアーツ探究実践Radio矢萩邦彦|ArsCombinator59:031.【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』ニーチェみ編コメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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