TOPトーク専門家リベラルアーツ探究実践Radio【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』美と遊び編48:38 2025年6月24日 144再生 問題を報告する 再生する シェアする 第4火曜日21:10に定番化しつつある生放送。(ゆるくはないです。笑)今回は「遊び」について。システムとルール、遊びということの二重性について。お楽しみ頂ければ幸いです。AI目次「意味」の捉え直し:遊びの哲学問題解決に囚われすぎない生き方西洋と東洋の探究:その違いとは?現代社会における「遊び」の重要性遊びと美、そして「偶然」の邂逅AI文字起こし(β版) # 【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』美と遊び編 はい、というわけで、皆さんこんばんはなのか、こんにちはなのか、生の人はこんばんはですね。 今日も元気に教養と哲学を考えるラジオを始めたいと思います。 はい、というわけで、ヤハギです。そして、近内です。 じゃあ、はい、お疲れ様です。 はい、というわけでですね、毎月第4火曜日は授業終了後にCさんと話すっていうね、 軽いノリの割に、割といつもしっかりした話をしているでおなじみのこの番組ですけれども。 で、先月ヤハギさんがトークの途中で、あ、しまったそうだ、分かりやすく話そうっていう急に趣旨が発明して。 そういうことなんですね、みたいな。 まあ、やや分かりやすくで今日もいければ。 元気でガンガン行くよりは、ちょっと補足しながらとかね。 そうですね。 今日は何について話しましょうか。 とは、前回美とか美学について、あんまりその話をしなかったんだけど、それにちょっと関連させて、もうちょっと具体的に言うと、 遊びっていう概念に急に僕たどり着いたんですよね。 急に言うに来たんですね。 いやなんか、ちょっと今僕、PHPが出しているボイスという雑誌で、月刊の連載を持ってるんですけど、 それでちょっと、なんか今回書いた、まだだから発表、まだ出版されてないんだけど、 その書いた内容の話をちょっと、僕の中ではホットな話題で、ヤハギさんにもちょっとその話したいなあと思って。 ほいほいほいほい。 なぜ遊びにたどり着いたかというと、 それやっても意味ないじゃんとか、 意味があるとか意味がないっていうのは、 どこからやってくるのかっていう分析を哲学的に書いたら、 遊びにたどり着いたんですよね、最終的に。 要は、なんで僕らは意味があるとか意味がないとか、人生の意味ってなんだろうとかって悩むかっていうときに、 意味っていうのって結局だから、効き目とか効果とか、何かに変化を生み出すものを、変化があれば意味があるとか、 変化がないと意味がなかったっていう、ただの無駄、虎に終わったみたいな。 なるときに、それって何でかって思ったら、 問題解決って思うから、ゴールを設定するからそこに向かって意味があるかないかが発生しちゃうんだなと思ったんだよね。 問題解決は良いことであるって大前提になるわけじゃないですか。 定義上問題解決が悪者な気がしないじゃないですか。 だけど確かに、友人関係とか恋人とかの関係って、特に問題解決のために集まったバディではないわけじゃないですか。 でも確かに親子関係が途中から問題解決みたいな、子供の受験の問題とか、ゴールみたいなのを設定した瞬間に、 組織というかグループだとか一緒にいるメンバーが息苦しくなっていって、 こんなことやっても意味がないとか、ちゃんとこれをこれをやりなさいっていう風になっていて息苦しい形になっていくのって、 問題解決ということに我々が囚われすぎてるからだなと。 なるほど。 でも世の中って問題解決っていうのが我々の有用性とか生産性とかって何だろうと思ったら、 問題解決って言ってるからだと思ったんですよね。 問題がありますと。 それを解決する、あるいは問題解決というゴールに近づくことは良いことであって有用であって生産的であって、 ゴールに近づきもしない。あるいは下手すぎたらむしろ問題を発生させてしまうものは意味がない。 悪であるみたいな。 っていう価値観が多分僕らの自分の人生に意味があるのかないのかみたいな。 あるいはどこのゴールに向かっていったらいいかが分からないから不安になるみたいな。 でも、それじゃないものってどういう領域かって、目的もない、ゴールもない、問題解決もないものって何かって、 それを遊びって呼ぶんだと思って。 しかも遊びって言ってもサッカーとか鬼ごっことか、確かにこれだと問題解決だけどゴールがありますよね。 だから競争になっちゃうわけじゃないですか。 だけど僕言ってる遊びってシーソーとか、あとあやとり、2人でやるあやとり。 あと手遊びっていうのは先生へのよいよいよいって子供とかがやってやってって、友人の家に行くといつもやらされるんだけど。 あれって別にこうやると得点が上がるとかもないじゃないですか。 僕にその遊びの最大のものって糸電話だなと思ったんですよね。 糸電話の遊び性って、どこまでが目的でどこからが手段かが分かんないじゃないですか。 僕の中の遊びの定義って、手段の中に目的が内在してるっていうか、目的と手段が癒着していてゴールがない遊び。 ただそこに参加してる人たちが、ただそこにいるということだけで成就するものが僕、遊びの本質かなっていうのをこの前書いてて思ったんですよ。 非常にリアルタイムですね。 私今そういう久しぶりに何年かぶりにそういう論文を書いたんですよ。 遊びの価値というか、みたいなところ。 遊びの価値もそうなんだけど、まさに今言ってた内容で、西洋の探究と日本の探究が何が違うのかっていう。 本当だ、今ダメってパソコンで論文見せて、論文開けるから思いっきり論文の形のビデオ見せてもらってるんですけど。 思いっきり論文なんですけれども。 エージェンシーね。 エージェンシーっていうものが出てきて主体性が大事だっていう風になった時にね、日本の教育、要は西洋型の探究っていうのはインクワリティの形をしているんだけども、 これってリュウイが言っていた問題解決型っていうのに結構特化してて、日本で言うとPBLみたいな感じになってるんだよね。 なんだけれども、日本のそもそもの探究っていうものってちょっと違うもんだよねっていう考え方を今、 俺とか俺が一緒に活動してるグループの人たちはしていて、それが日本ジャパニーズ探究。 インクワリティじゃなくて探究っていう言い方をもうしちゃっていいんじゃないのかっていうことを言ってるんだけれども、 じゃあ日本型の探究って何かっていうと、僕はこれ昔から遊びの研究とかちょっとしてたので、 現代演武と目的の最低義っていうところは日本の中にすごく遊的というか遊び的なところがあって、そもそも目的ありきなの。 探究っていうのは自己目的的であるものじゃない。自己目的的であるんだったらそれは遊びだよねっていうところの、 遊びと日本流の探究の近さみたいなものってすごくあるわけです。 簡単に言うと、日本は現代演武って言って1615年以降に内戦が禁止されたわけですよね。 内戦禁止されたら、剣道だとか居合道だとかそういうものって意味ないじゃん。戦わないんだったらみたいな。 だけど滅びなかったわけですよ。滅びずに精神修養だとか人格の鍛錬のために、 本物、本当の敵は自分の中にあるんだみたいな。内なる自分だみたいな風に価値観変わっていって、 自分が高みに登るためにっていう風に変わっていった。滅びなかったんだよね。 鉄砲火事なんかも目的が鉄砲を作ることだったのにその技術を使って花火職人に変わっていったわけですよ。 こういう目的が変わっていくとか、それ自体が楽しいパターンって、例えば関高和みたいな人が和山だとかを通じて美跡にかなり接近したわけだけども、 天文学のために美跡をやるみたいなライプニッツ的な考え方は一切なくて、算数好きだからやってたらそこまで行き着いちゃったっていうパターンなんだよね。 気づいたら問題解決にもなってたというか。 探求ってやっぱりそれが一番いい。目的ありきではなくてやりたいことやってたら結果論として成長したし充実したし、社会のためにもなりましたみたいな。 そういう探求を作っていくっていうのが日本から探求を発信する上ですごい重要なんじゃないのっていうのが今考えているところで、 遊びの話の中で、ここにほんのちょっと入れて、まだ日本語の文章にしてないんだけれども、日本の遊びの中でダルマさんが転んだっていう世界でもめちゃめちゃ特殊な遊びがあるんですよ。 ダルマさんが転んだっていうのはまさにさっき知事さんが言ってた通り、助けた奴が得しないんですよ。 しかもエンドレスで続くんですよ。ドイツだとかにも似たような遊びがあるんだけれども、助けた奴が鬼になれるっていうルールなのね。 だから何らかのプラス効果に対するセンティブが発生するんだけども、日本のダルマさんが転んだだけが完全に理他的というか訳が分からないんですよ。 続いていくみたいな。 そういう文化の中で自然に起こってきた日本型の探究っていうもの、すごく遊び的なもの、理由的になるものっていうのが、ちょっと世界平和にみたいな大きいものを解決するための鍵になるんじゃないかなというふうに思ってるんですよ。 まさに視点が今一緒だったんですよ。 だって僕も、いわゆる今の現状のあらゆるものの外にある、オルタナティブな何かとかものがあるとしたら、遊びという領域になるんじゃないのっていう。 今ここ我々がやってるゲームではないものって言ったら、それは全部遊びっていうんじゃないのって思って。 だから結局、誰でも輝ける社会にとか、あるいは弱者救済だとかそういう言説も、僕すごい、本当に哲学、自分でも掛けたなと思ったのが、弱者救済っていう言い方で問題解決って言った段階で、そこには優劣が出ちゃうんですよね。 だから、しゃくしゃくとか、社会をよくしてどうすればいいですかって、遊ぶしかないじゃないですかっていうふうに。遊び的なものをやる中で結果的にっていうものでしかなくて。 問題設定とか問題解決って言った瞬間には、そこに有用であるか、有用な解決であるか、有用ではないかっていう、必ず有用性生産性に絡めとられるんですよね。 遊びって、そこから唯一逃れることができてるというか。何でやってるんですかって。え、だって楽しいっていうか。これ自体が報酬というか。 私とあなたがここで例えばあやとりをやってる。これ自体が報酬であるみたいな。そこにだから、もっと早くとか、もっと美しくとかって言った瞬間に競技性が出てきてしまって。 そうすると僕は競技は、会話とか競技も入ってるんだけど、彼らの遊びの分類の中には。それは遊びには入れなくて、コンペティションっていうか競争競技っていうものであって。 俺はね、会話に関して言うんだったら、競うこと自体を楽しむのはアリです。要は勝ち負けにこだわらずに競うのが楽しいっていうのは全然遊び的でOKだと。 だから割と陸上競技って、割と遊び的だと思うんですよね。なんでかっていうと、比べるというか、過去の自分とか未来の自分が自分を褒めてくれるか、つまり自分の記録を超えられるかだけであって。 競争してるように見えて、誰とも競ってはないですよね。自分の最高到達点を出せるかどうかっていう遊び。 だから陸上競技、スプリントでもフィールドでも。もちろん1位から金メダルとかはあるけど、結局自分の最高到達点とか、自分の記録を超えられるかとか。 更新できるかっていう。 デカイト以降はそうなるよね。自分というものが格としてあって、対象というものがあって、そこと比べましょうっていうことをまず始まって。 その後で今度は鏡として自分対自分という風に進んでいくわけで。競争って言うと多分翻訳が悪いんだと思うんですよね。アゴンに関しては。 本来競って争ってるじゃないんだと思うんだよね。比べているとか、1から2になったっていう感じなんだと思うんですよ。 1人で遊んでるんじゃなくて2として遊んでる。その2というのが自分と他者かもしれないし、それは1人遊びなんだけれども自分を客観視している1人遊びなのかもしれないけども。 とにかく2というものがベースにある遊び方っていうのがアゴンなんだと思うんだよね。 僕もそういう意味で糸電話っていうのは僕は遊びの最大のものだと思うんだよね。 だし、声かける前から糸がピンと張ってる段階で向こう側に誰かがいるのは確定してるじゃないですか。聞こえるっていう。つまりトータルジーなんですよね。 情報量としては情報の価値ゼロなんですよね。簡単にもしもしって情報量ゼロじゃないですか。内容としては。 あなたがそこにいるって私はこっちにいるよっていうのがやりとりが成立するかだけであって。 糸電話って何を遊んでるかっていうと更新すること、連絡すること、離れた場所に誰かと通信ができること、それ自体の遊びであって 何を伝えるかって二の次じゃないですか。僕はやっぱり糸電話が一番。 確かにすごく遊び的だよね。 目的というか。もしもしは目的があったからな、そもそも。あれは余計だから。 糸電話的なる活動っていうのはすごく遊びの類型というか遊の類型としては面白い。 糸電話的っていうか糸電話性みたいな。 糸電話っていうのは一つの具体的な遊びでもあると同時にすごくヒールというかメタファーにもなる気がしていて。 糸電話の相手が人間なのかAIなのかっていう問題が出てくるよね。それが遊びとして成立するのかしないのか。 あるいは科学者ってあるいはその糸電話の向こうが自然とか宇宙なのかもしれないですよね。 天文のそれこそシグナルというかを受け取って、それこそ神っていうものがね。糸電話の向こうに神がいるっていうのは西洋的な考え方かもしれないんだけども。 それが和歌の場合はこの糸電話が使者になるわけじゃん。死んだ人とも我々は歌を正しく読むことができれば この言葉はこの歌はこのノリとは使者にも届くはずだって思いがあってやっぱり古代の人たちは歌を読むっていうのはまさに糸電話の一方的な通信ではないっていう信憑が多分あったから歌を使者へと歌を残すっていうのも。 なるほど。今の話を拾うんだったらそこには遊びと美との融合があるみたいな。 でしょ?そうなんだと思う。 美っていうのはすごく難しくてね。遊びと全く同じに語れないところがある。そもそも神前美っていう概念が生まれたときに何を美としたのかっていうのは時代によって全然違うんだよね。 デカルト以前の美っていうのは往々にして神との一致なわけですよ。だから和歌を読むっていうのも例えば自然、目の前に広がる大自然と一致するような和歌を読めたら美しいわけだし 私の心と一致するような和歌を読めたら美しいわけだし、とにかく神との一致とか世界との一致みたいなものが美の一つの条件だったわけだよね。 でそれがマニアリズムみたいなものが出てきて、神を超えるとか自然を超えるような表現をするラファエロみたいなやつが出てきましたよって言ったときに、それはそれで美しいよねっていう評価をしたところから人間の美っていうものの価値観が変わってきた。 そこにはその美には優雅が混ざってたよ。強越というか、遊んでるのか。 そのはみ出し方がいかに面白いはみ出し方をするかみたいな。 そうそうそうそう。まさにそうやね。 そういうことが息みたいな話にもつながってくるのか。 そこが西洋的遊びと東洋的遊びのちょっと違いではあるかも。 なんかね、チャブ大大使みたいなことをするから東洋的な遊びになってくるの。でも西洋は結構真面目に詰めていくからね。遊びというものに関しても。 それがいわゆる昔からあるリベラルアートの音楽とか数学における世界との調和みたいな。コードとかハーモニーの美しく響くかどうかみたいな。 調和っていうのは、そもそもアーグスティヌスとかもそうだけども、トマス・アキナスとかもそうだけども、神との一致なんだよ。 調和というのは一致であるっていうような前提があったからこそ、いかにロジックで一致しているのかどうかっていうのと、あとはそんなロジックないんだけどなんか調和している感覚的な調和があるっていうのは、それはそちらもイコールなはずであるっていう前提がある。 それだと遊び的じゃなくて問題解決型というか、明確な目的に向かっている。 マニエリスム以降の神との乖離みたいなものが世間の中に出てきたときにようやくその余白が出てきたわけだよ。 距離がある。神と人間の表現に距離がある。今までだったら神の方がいいに決まっていたのに、これはこれでいいじゃんみたいな世界が出てきた。 ジョジョンみたいな感じなわけですよ。マニエリスムって。そんな形の人間いねえよとか、そんなポーズ不自然だよっていうのがなんかかっこいいとかなんかいいみたいな表現っていうものを認められ始めて、そこに遊びの美。 無駄、無駄、無駄、無駄ってことですね。無駄なんだけれども逆に良くね?みたいなところが生じてくるっていう。その辺からバロックにかけてっていうのはすごく面白くなってくるところだよね。 美って言っても、いろんな側面というか、どの時代の美を美を美しさによってかが、普遍的な美っていうよりは時代に固有のものというか、美のどの側面を言ってるのかによって美というものの語り方が変わると。 その辺の時代のことを言うんだったら、本気で遊びだしたのが西洋だし、本気になっちゃったら美じゃなくて遊びじゃないんですよっていう東洋的な言うもあるわけで。その辺は面白いよね。 僕が今、日本のジャパニーズ探究を一緒に作っていって、世界に発信していこうぜっていう仲間たちとやっているのは、日本の遊びっていうものを探究の中心に置く。これはでも西洋的な従来型の探究と対立するかというと、そんなこともないよね。 ルソーなんかは自然の遊びっていうのが子供の教育で一番重要だって言ってるわけで、自然の遊びって何?って言ったら自然に起こる遊びなんだよね。こういう遊びしようぜとかしなさいって話じゃなくて、隙間時間というか暇を子供たちに与えて、どんな遊びを勝手に始めるのかみたいなところっていうのはすごく重要で、本来探究っていうのもそういう風に始まっていくというかね。始めるのが一番良い方法の一つ。なかなか学校という組織でそれやるのは難しいんだけどね。 そうなんですよね。今日も中学生の方の授業で話をして、今の話って結局問題解決って言うとよく聞こえるけど、問題解決を似た言葉というか近いところにある言葉で、官僚的なシステムって言った瞬間にみんな、ちょっとなんか良くないかもって感覚になるじゃないですか、まず。問題解決を最も効率よくしようとしたら、多分官僚制のシステムになると思うんですよね。 無駄なく効率よくって大きなプロジェクトを成そうとしたら。つまり人々を完全に分業に分けまくって、立場と役割を固定させて、書類に、文書による連絡のやり取りみたいな、許可するみたいな、ハンコの文化みたいな。 それってある意味問題解決の最大のもの。問題解決を僕らがやろうとした時の一つの手段は、官僚的なシステムを構築することっていうのって、割と多分、何百人何千人とかの組織だとか、あるいは大きなプロジェクトやるんですけど、多分絶対自然になっていっちゃうだろうなと思ってて。 結局今の話で言うならば、システムっていうもので遊べるかっていうことってすごく難しい。本来はシステムも遊べるんだよね。ゲームにルールがあるように。だけどそのシステムが固定化した時に、動かなくなった時にシステムが。 そういう作業になっちゃう。だから僕は遊びの中で、カンケリーダとかをやっていた時に、ちょっと3歳の弟がついてきたらごめんみたいな。じゃあこの子だけプラス30秒ね。 その場でルールを変容していくっていうことを前提にしている場におけるルールっていうのはすごく動的だし遊びがあるし面白い。 ルールが固まってしまった途端にそれは全然生きていないというかね。今言った話でシステムの内部で起こる変更。今のヤギさんの感覚で言うと。 それはちゃんと提示した方がいい話だよね。僕はそれはシステムAからシステムA'に変わったっていう風に思うんですよね。ルールを一部ルールを変更したらそれはもう遊びのシステムが 新たなルールを、それこそアメリカの憲法みたいに修正条項が加えられたら、元のルールではない別のものになる。 じゃあそれはなんでルールを変更したのか。システム論的な話をすればシステムとは何ぞやというのをめちゃめちゃ簡単に言うと、共通の目的がある全体のことをシステムと呼ぶわけだ。 だから共通の目的がこのゲームを遊ぶことであれば違うし、共通の目的がこのメンバーで楽しんでって言うんだったら、ルールを変えることっていうのを内側から発動したシステムとして成り立つんだよ。 その共有されている目的がどの抽象度でどういう言葉なのかによってシステムが変わってくる。 だとすると僕のシステムっていうものの定義が相当狭いのかもしれない。 一般的にコンピューター的なシステムっていうのは狭い。 まさに隙間とか余白とか遊びなくきちっと組まれているレンガブロックみたいな。 例えば地層学者という受講があったときにこのシステムっていうのは、関わるみんながなるべく充実して成長していくようにっていうようなことを目標としている、目的としているよっていうところのシステムなわけですよ。 そういう抽象度の高いシステムにしたときに先生たちがそれぞれ違うことをやっても全然それは成り立つわけじゃない。 システムが壊れた、クラッシュしたとはならない。 クラッシュしないような目的設定だしね。 前からヤメさんが言ってたシステムじゃなくてネットワークっていう方が重要じゃんって言ってたんだ。 僕は地層学者はシステムというよりネットワークだと思ってるんですよ。 僕はシステムって言葉は硬直化したものの代表例だと思えば、村上春樹のせいかわかんないけど。 システムというキーワードは本当に硬直化した、本当に世界から人が絶滅したとしてもずっと運行し続ける地下鉄システムみたいな。 魂が抜けてゾンビのように動いてるみたいなのが僕のイメージ。 魂抜けてるのに機能だけ果たし続けるみたいなのが僕のシステムって言葉のイメージなんですよね。 魂が入っているシステム。 主体性がなくなってもそのまま回り続ける。 それはマシンだよね。 さらにもっと強い言葉でマシンって言うとか。 システムって言うだからそうか。 それぐらい威力取ったとしたら、僕らがシステムって言葉で言語ゲームっていう風に変えると固定されてるんですよね。 柔軟な言語ゲームって時は多分言語ゲームが変わってることを許容できてるメンバーかっていう。 だからこそシステム論的にシステムっていうものを捉えるのであれば、抽象度が高ければシステムの中に遊びを取り込むことができる。 その取り込み方によって、ウィーナーじゃないけれどもサイバーネティックスみたいな、 要はハウリングを起こしてしまわないような目的設定であるとかシステムを作っていかないと、 システムっていうのはうまく回らないというか、閉じた系としては成り立たなくなってしまうというか。 逆に閉じないと成り立たないシステムっていうのが今、知事さんが言ってた。 そうだね。解放的であったら内側から崩れちゃうというか。 そうそうそうって話だと思うんですよね。 だから今日ヤギさんにどんな話したいですかって時に美と遊びみたいな話と、 あるいはもっと抽象度を上げるか、違う観点から言うと、 現在の僕らが持っている物差しでは測れない者たちってキーワードがいいなと思ってて。 だから例えば余白が大事ですとかって言うじゃないですか。 組織に余白を設けましょうって目的で設定した瞬間、余白じゃないじゃんっていう。 さっきの遊びも自然発生の遊びもさ、遊びになったとか遊びが出てきたっていうのが正しい遊び。 遊びましょうって遊びじゃないじゃんと同じように。 結局みんな全部語法が文法がそれ全部問題解決の言い方なんですよね。 その時に余白をとか柔軟なシステムをって、それ問題解決じゃん。遊ぼうと最初からしてないでしょっていう。 本当僕らは必ずビジネス畑の人たちって必ず全員、どんだけ人間的なこと言ってようが必ず問題解決、ゴール設定みたいな文法の語法、言葉の使い方についてなってるなっていうのは。 遊びの人たちはそんな言い方絶対そもそもしないよっていう。 やっぱり遊びの人たちの思考であるとか、マインドだとかっていうのはこれからの時代絶対的に優位になるというか、AI時代は確実にそっちの方が大事なんだよ。 だからその学びを広めていかなきゃいけないし、早くチェンジしたらそれだけハッピーに過ごせるぜっていう話なんだよね。 多分この話も今聞いてる方が、AIは遊びができないから人間が遊びができるからってことですかって、多分ちょっと違うんですよ。 こんだけAIが発展していくと、遊びができてる組織、遊びができてる場所っていうものがキラキラ見えるっていうだけだと思うんですよ、多分。 今まで以上に、あそこに遊びがあるぞ、あそこに遊んでる奴らがいるぞっていうことが、今まで以上に可視化されやすい。 なんかあそこの人たちって楽しそうなんだよね、なんでか知らないけど。結果的に結果もついてきてるし、何なんだろうあれっていうふうに絶対に見えてくる。 やっぱりそこに大事なのは信頼とかね、その組織の中とかシステムの中にいる人々への信頼とか。 合意形成ではないけど、そのシステムの中にジョインしていますよっていう自覚っていうものを納得のもとに持っているこの集まりであるかっていうところはすごい大事だよね。 AIは遊べないっていうか、AIがやると硬直化したシステムになっていくから遊びがない。遊びって言葉って面白くて、2つ意味があるじゃないですか、まさにプレイとか。 プレイしましょうっていうものと、隙間があるとか。例えばタイヤとシャーシのところがギチギチに組んでるとタイヤって回らないじゃないですか、軸が。 ちょっと程よく遊びがあって、程よくベアリングとかが入ってるからタイヤって回るっていう。その隙間があるとか、大工さんとか木を組むときにちょっとだけ遊びを残すからとかっていう遊び。 まさにその余白、バッファーみたいな。用意されたバッファーってバッファーじゃないじゃんって。 なるほど。 今もするバッファーは。 用意されてないバッファー。それはバッファーというのか。 バッファーは微妙かもしれない。 でもそこは二極化して考えなくてもいいんじゃないかな。たとえ用意されていたものであってもバッファーがないよりあった方がいいよねぐらいの感じで。 バッファー的なるものっていうのを用意できるっていうマインドが大事。それは人間が意図的に選択して作れる余白じゃない。 意図的に選択できないっていうか用意できない余白が本物の余白だったとして、それは我々にはどうしようもない。 コントロール何にもできないっていうね。本当に神からたまたま与えられるみたいになっちゃうもんね。 そこら辺を上手くついていたなっていうのが僕の中でデュシャンなんですよ。 デュシャンのレディメイドみたいなものっていうのはすごく 美しさっていうのは何かっていうこと? あとは遊びを美に転換するっていう意味ではやっぱりケイジなんだよね。 ジョン・ケイジ。 何分何秒だっけ? そうそう。 なるほどね。 イメージわかってきた。 サイコロ振って偶然で出た音符を当てはめてみて、気に入ったら採用する。気に入らなかったら採用しないで曲を作るみたいな方法っていうのは すごく遊びをどうにかして美にしようとするアートだったと思うんだよね。 だから、偶然から始まったんだけどあたかも最初から必然だったみたいな顔をするっていうのが遊びなのかな? 偶然を必然に私がするだよ。 でもそれはすごい二重性をはらんでいて、偶然だったことは最初から織り込み済みなわけじゃん。 そのアンビバレントな感じっていうのが遊びなんだ。 人間が作れるビリの遊びのシステムってアンビバレントな感じなんだと思うんだよね。 だから僕は結構遊びっていうものを教育の中で取り入れるときに 〇〇の役に立つとか〇〇の能力が育つから遊ぶんだよっていうことを子供に言ったら台無しなんだよ、終わりなんだよ、いけじゃねえんだよっていうことを言ってるけれども 同時に、じゃあ保護者になんでこの遊びをやったんですかって言われたときに それはこういうことを期待してるというか、そういう結果になることがあるんですよっていうふうに説明できる必要があると思っていて それは遊び勝ち勢の人たちは認められないというかね、その価値観的にぶち当たるところではあるんだけども 僕は遊びというものをあえてやろうって思った時点でもう違うんじゃないかとそもそも思ってるんだね。 僕は遊び勢の人たちに、じゃあこの遊びこういうふうにやろうぜとか、こういうのをルールに決めようぜって言った時点で 相当その意図、人間の意図というか、遊びじゃない部分っていうものを本在させてしまってるんだから それは0か1かの話じゃなくてグラデーションの話でしょと。それは教育に入れるときも全く同じだよねっていう 僕の提唱しているリベラルアーツというのはなんせそのバランスを取る、重量をいく、間をいく、そのために両端を知れっていう感じだから そういう意味での遊びの捉え方っていうのは、そうなっていくよねとは思ってる 先ほど言ったヤゲさんの遊び勝ち勢と別のバッティングしないと思ってて、言葉遊びになっちゃうかもしれないんだけど ヤゲさんが言った遊びには価値があるんですっていう言葉は遊びのその言い方じゃないですか いわゆる遊びの教育的な効果を宣伝した人たちって遊びの中で言っちゃってる気がしていて 遊びの当事者たちには言わない。遊びのバックヤードであれは何だったんですかって言って、あれも教育なんですよっていうのは 舞台上と楽屋は分けている。それは僕が言ってることと同じ話だよね あるいはあとは目的を持って問題解決のために始めたんだけど、問題解決のためにやったけど楽しくなってきちゃって あれそもそも目的なんだっけって忘れちゃうって大事だと思うんですよね。忘却? 遊びには何かあれ何で始まったんだっけとか、あれどこに行こうとしたんだっけって忘れちゃうっていうのが結構遊びの重要なキーワード 遊びと忘却っていうのは忘れちゃうと思うんだよ だからそこにロジックがあったかどうかがわからなくなる。だからそのなんで今この話してたんだっけっていう話も一緒じゃない 今なんでこの話をしてたのかわからないけど、この話を今してんだよっていう それが遊び的な雑談ですよね。まさに雑談ですよね。 イシューがあるわけじゃないとかね、今日話すためのディスカッションイシューがあるわけじゃないっていう ディスカッションイシュー何してますかすごい嫌なんですよね 落とし所とか落ちるとかじゃないからね。落ちるかどうかは知らないけど、スタートを決めるのはいいんで別に ここから遊ぼうぜみたいなのは 遊びってなんか不意に終わるんですよね、遊びって そう、不意に盛り上がって不意に新鮮化して不意に終わるんだよ そう、僕でそれにこの前の連載の原稿にも書いて遊びって多分不意に始まって急になんかふと終わるみたいな 僕なんで大事かって言うと、僕はなんかすごい大げさに言うと 生きてて楽しいなって時ってその感覚の時なんですよ。遊べてたなとか 意味悪いとかじゃなくて、生まれてきてよかった、楽しかったなっていう それはもうまさにベルゾム純粋地属の中にいたってことだし キスケントミハイのフロー理論もそうなわけじゃん、ゾウもそうだしね それこそエランビタールみたいな感じ、生命っていう感じ 後で振り返ったら何だったんだって話で、その時は振り返るもくそもないのよ、没頭しちゃってるから 没頭とか暴我とか、我を忘れるとか脱児とか、私を超えちゃうみたいな そこが私を超えるっていうことと、実は原始に戻るっていうことの近さの話ではあるわけですよね 戻ってる感じがあるね、確かに、元いた安心な場所にみたいな 人間が自由になるとは何なのかって言った時に、進む自由と戻る自由っていうのが同時に存在するわけで 進んでるっていうことはもしかしたら戻ること、戦略的に戻ることなのかもしれないし なかなかその辺は考えるべき、今、時代なのかもしれないね 僕だからと原稿で、目的と手段が一つに解き合ってしまって 見分けがつかなければつかないほど、それは上質な遊び、根源的な遊びになる 遊びには明確な始まりも終わりもない、偶然始まり不意に終わる さすが上手いね、偶然始まり不意に いいレタリックでしょ、ちょっと美的な美しいね デスマス調で描いてると思いって急にダディアメトリック、ポエティックな表現をね ずるいね でも自分で読み上げても音がいいですね 自分で読み上げて音がいいってとても大事 これも遊びなんですよね、別に 法則があるんじゃないよ、なんかいいって話だからね 女子が気持ち悪いとかリズムが悪いとかっていう 遊びとは偶然始まり不意に終わるっていうのは 俺、チーさんから出た言葉の中で割と一番好きかもしれない 今までで一番俺に刺さった表現かも ここのレタリック、素晴らしい なるほどな 人間関係というか、本当に大切な人との関係ってそうじゃない? 人生もそうじゃん、偶然始まるじゃん 不意に終わるじゃん、死地というのも 本当に楽しい時間とか、尊いものっていうのはね 偶然始まって不意に終わるし 明確な始まりも終わりもないみたいな 眠る時もそうじゃん 眠り始めたかわかんないけど、起きた時もあれいつから起きたかみたいな 割と覚醒してるタイトルだとか 目覚めてるのが偉いみたいな文章があるじゃないですか 明瞭で明快で、明確な意識があるみたいな もうちょっと曖昧な、不老状態とか 眠ってるのが起きてるのかわかんない それこそユング的な夢の時間みたいな 幻想の中なのか現実なのかがわかんない 夢、うつつっていう、どっちなのかわかんない境目みたいな 僕はそういうとこに甘く美しい領域が広がっていると思ってて バキバキのロジックとバキバキのナンセンスの間っこぐらいに遊びっていう すごくちょうどいいバランスに遊びなんですよね 無秩序だったらうまく遊べないし 逆にガチガチロジックでも遊べないから 遊びって結構バランスの絶妙なものを 多分イトデーマンもそうじゃないですか 紐を強く引っ張ったらね イトデーマン壊れちゃうし 紐はピンと張ってないと声が届かないから お互いが同じ力で引っ張ってるみたいなものも 結構繊細さもあるし 引っ張りすぎたら壊れちゃうしね 糸が束んでたらそもそも声が届かないし 糸がピンと張ってる時点でもうコンセンサス取れてる 同じ力で引っ張って、左右反対だから 全く同じ力で引っ張り合ってるんですよね そこが面白いですね すごく美しい共同作業だと思う、イトデーマンって もう始まる前から イトデーマン的なるものはすごくいいネタ コミュニケーションとか通信って すべてイトデーマン的になると思うんですよね そうだね そうでなかったら入ってこないもんね 言ってることがね それはとてもいいと思う 結局イソデーマンって遊びなのかっていうと 違うわけじゃん 完全なら遊びではなくて イトデーマンを用意して イトデーマンを相手に渡して さあどうするのっていう話なわけで くわ立てっていうね 西村清和、雲岸清和という哲学者美学研究の方が 遊びのツイン概念は くわ立てっていう表現をするんですけど まさにだから目的を立てて プロジェクトとして動かすっていう くわ立てっていう言い方をしていて でもイトデーマンもね 不意に始まるって言ったら作ってたりね 持ってきてそっち持ってとかっていう風に 遊びの外では結構くわ立てっていうか それぐらいの思考性はあるべきなんだよ 本物の偶然の中に身を置いた時に 熱理非学第二法則にやられるぜっていう話じゃない 我々は何か意思を持って 何かが強がっていくっていうことを 持ってるから生きてるっていう風に言うわけで そもそも生きるっていうことの構造がそうなんだよ その中ででもやりすぎちゃったらダメなので イトデンはぐらいのくわ立てとジェンゾっていうもの それが遊びのある話だね 僕はイトデンはメタファーを築いた時に 毎月連載してるから6センチくらい書くんだけど イトデンはって思いついた時に遊びの 今まで僕の読んだ中で遊びの文献とか いろいろ読んだ中でイトデンはに着目してる論考がなくて これ絶対ありじゃんと思って シーソーって遊びもあれもだから 別に意図なく シーソーもどっちが先に始めたっていうのもあまりないし すごく総合的だし 対等な関係シーソーって ニス村強風さんはシーソーっていうのが 遊びの典型として最初に読んでたんだけど いやイトデンはでしょって思って なるほどね シーソーそうだな ちょっと会話寄りなものを感じるよね めまいというか ギリーリンクスね でも僕はバンプオブウチフィルムが好きだったり イトデンはっていうのはバンプ的なメタファーだったり なるほどな そういう流れか 超バンプ的 それっぽい歌詞ありそうじゃん 多分あんまないと思うんだけど 彼もやっぱ 宇宙で一人ぼっちで誰かと通信ができたっていう 喜びみたいな 谷川俊太郎とか 宮沢賢治もそういうモチーフがあるっていう 宮沢賢治も 宇宙で一人ぼっちで誰かに声が届くだとか 一人で生きて 誰かの声を聞いて一生懸命生きていくみたいな 谷川俊太郎も二条光年の孤独なんか そういう話だからね 僕のあるところで書いたエッセイも 出版社で講演をやってる文学青年というか 友人が エッセイさんの天文学的なメタファーとか 費用の使い方はやっぱり宮沢賢治とか バンプだとか谷川俊太郎とかの経負だ気がしますね って言われて 糸電話っていうのはすごく僕的な メタファーだったなと思って とても良いと思います すごく生産的というか いろんな言葉 分析できるテーマかな 糸電話って 糸電話近渕っていう感じで なるほど 出てくる 後世では認知されるぐらいになるんじゃないですかね 僕一時は雑用おじさんになったし リタケアおじさんにはあんまり 本が難しかったからあんまりならないんだけど 遊びおじさんになろうかなと思って 糸電話の哲学いいじゃん次の本 おしゃれ 全然いけるぞ 読む人が読めば糸電話はまたメタファーだろうなみたいなね コミュニケーション論とかねそこで うん そうなるほどね 今現代は遊びをちゃんと論じてる あんまり論じてる何もいなくて 海洋さ紹介してるとかさ ホイジンガーだっけ 今さホイジンガー いわゆるオーセンティックな遊び論があるんですよ オーセンティックな遊びの哲学か 教育実践の遊びの具体的な 全く違うんだよ だからそれを正岡成吾はやってない だって話なんだよ そうかそうかどういうことか 彼はもう優なのよ 優でゴールなの なんなら でなんで優だったのかっていうことを ひたすらずーっと解説し続けてたわけなんだよね 彼の生き様の中で でもそれはちゃんとフォロワー達も理解はされてたの? この人が優っていうのはそりゃそうなんだっていうのは どうだろう リアルタイムで優を読んでた人達はそうかもしれない でもやっぱり後から参入した方で優を実際 優が手に入らないっていうのもあるんですよね うちの教室には優なさそうなこともあるけど 実物見ないと分かんないっていうのもあるし 世代間時代間はあると思う あれっていつから言った雑誌ですか? 雑誌ですよね 雑誌雑誌 月刊誌 70年代で月刊誌 で、とったら200巻とかぐらい出てる? そこまでは言ってない 教室にあるのは101とかその辺のナンバリングかな 僕が書いてる書き方も てか哲学って本来優であるはずなんですよ 遊びじゃないってか 最近の哲学ロップって遊びじゃないんですよ それこそ問題解決 真面目だから 哲学の本を買う人も真面目だし 哲学ターゲットだったら真面目に書かなきゃいけない 少なくとも論文はみんな真面目になっちゃうんだよね 真面目だね 一般書はみんな結構ね 国文さんもそうだしいろんな人が遊べてると思うんだけど 国文さんは遊べてるけど ほかの哲学者はちょっと遊べてない 論文の遠距離みたいな アカデミズムの中にポジションを持ってる人は遊びにくい そうだよね どうしても だからそのユーチューバーだとかさ 本名を明かしてない人たちの哲学書の方が全然 自由度高いっていう 遊べてる 確かに それは一つの可能性ではあるよね そうだね 新メイピーの言文とかないからだし 遡ればね ヤムチャ ヤムチャがそうだしね 確かに だから遊びと野蛮さみたいなものも紙一重じゃないですか そうだね ただやっぱりどちらかというと そっちは相似系というかさ 東洋の方によるよね 遊びだとか野蛮とか 愚かみたいな そうそう 西洋の愚かって本当に愚かじゃないですか ネガティブな評価しかないんだけど 割とアジアとか僕らにとって 愚かって甘く美しい しょうもないよなみたいな 西洋の中でもユダヤ系というか カバラ的な思想で言うんだったら 愚かって本当ですかっていうのは 最初から織り込む点はあるんだよ 一番それが如実に出てるのが タロットの愚者なんだよ タロットの愚者は 自分たちが 自分がそもそもいたフィールド 自分が知ってる土地をわざわざ離れるという 愚かなことをしようとしてるわけだ だから犬は吠えて止めようとするし 愚者だっていう風に サークル内では言われてしまうんだけれども 彼が一歩外に出たら 情報の水位差 その外の人が知らないことを 知っているわけだね それを活用して 成り上がっていくっていうのが タロットの一つのストーリーなわけだ だからそういう意味で 愚かは本当に愚かかっていう そうそう 何か前提とか そのシステムの中に 愚かかもしれないけどっていうね 僕はそれをリタと呼んでるんですよね みんなやめろって言うんだけど 助けちゃうんだってことによって 自分が全く愚かなシステムに移行するとか 誰かを助けようとしたら自分が 周りが愚かだ やめろって言うのに やったら自分が すごく心地いいところにたどり着いた 新たな視点を獲得したみたいなものが 僕はリタと呼んでいて それはゲーム理論的でもあるよね それは行動経済学と すごい神話性が高い話に聞こえるな でもそうだと思うよ 結局自分が決めてるわけじゃない? 親善美的なものね 自己決定してるわけで 社会の価値観みたいなものは 超えちゃうっていう グッシャーとかだからジョーカーですよね 同家とか さっきの話で言うと 自分の権力に唯一 異議申し立てができるのが ジョーカーっていうね それとトランプと呼んでしまうっていう この皮肉な話 確かにそうですよね ということで 綺麗にお持ちがついてきて 今日の これは美と遊びの話は 今までの流れから言ったら 自然にこの話になったし 今日の話はもうちょっと掘り下げて しばらく続けるテーマというか 思ってるんです 僕もこれ自分の持ってるテーマを 貫くキーワードだなと思って これはちょっと 俺も同じ そこをちょっと貫いていきつつ 探究とか学びとかっていうものを やっていきたいなと思って もうちょっとこういう話はして というわけで本編は 今日はここまでにしたいと思います 皆さん遅くまでお付き合いありがとうございました ヤハギでした 近内でした おやすみなさい もっと見る #哲学 #遊び #リベラルアーツ #美学 #近内悠太 #矢萩邦彦 リベラルアーツ探究実践Radio矢萩邦彦|ArsCombinator48:381.【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』美と遊び編コメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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