TOPトーク専門家リベラルアーツ探究実践Radio【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』自由自在編47:32 2025年8月15日 165再生 問題を報告する 再生する シェアする 第4火曜日21:10に定番化しつつある生放送。(ゆるくはないです。笑)今回は「自由」について話したいという近内氏。自由の定義と矛盾を読んで認知することと「自在」のススメ。お楽しみ頂ければ幸いです。AI目次自由と自在、その違いとは?教育における自由の扱い方とは?自由と主体性、そして偶然性愉快な人生のための作法とは?写真における主観と客観AI文字起こし(β版) # 【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』自由自在編 始まりましたけれども、教養と哲学を考えるラジオ ヤハギト、チカウチです。 今日もよろしくお願いします。お疲れ様でした。 というわけで、授業後に一服しながら話していこうという番組でございますけれども 今日は何について話しますかね。 改めて、その話をする中で、前回も遊びというキーワードを もう一回、もうちょっと掘りたいなと思ったんだけども 同じキーワードで2回やるのもありだが、ちょっとだけずらして考えると 自由っていうキーワード、自由っていうものについてのあれこれを話すと きっと地層学者的、ヤハギさん的、チカウチ的にも 真ん中にあるようなところに切り込んでいける船というか この船に乗ると、僕らも思わぬところにたどり着けるような キーワードの船に乗っているような感じかなと思って まさにリベラルアーツっていうところもあるし、やっぱり自由っていうところ 自由になるんですけど 自由の話をするのって結構、教育の中では難しいよね 最近自由で言うと、例えば管理型が良いのか良くないのかみたいな話だとか 自由に育てる、法人で育てるのとほったらかしは違うよねとか あとはそうだな、自由とわがままって何が違うのとか 結構線引きが曖昧なまま語られているところがあるかなという風に思うんですけど 教育の中で自由っていうものを扱うときに 例えば知事さんだったら何を気をつけるべきだとか どこに着眼点を持つべきだとかって思います? メタ的なことを言うと 自由に子どもたちをさせなければならないと思った瞬間に 自由じゃなくなるから プレイヤーというか授業の中では今自由かなみたいなことは あんま考えないほうがいいというか これちなみになぜ自由ってキーワードで今回しゃべろうかなと思ったのと 内田パツルさんと対談を 自由っていうのをライターさん編集さんから 自由っていうキーワードで言って内田さんに振ったときに 内田さんの自由感というかそんな感じで すごいこれは絶対 細かくノワーツの本を読んでいただくとあるんだけど 合気道とか武道的に言うと 武道の世界では自由というよりは 自在っていうことが大事ですね なるほどね すごいかもと思って わかりますこの感じ 内田さんにも言ったのがやっぱり自由って言うとどうしてもやっぱり すごいヨーロッパ由来の ちょっとバタ臭い匂いがしなくもないかなっていう つまり何か枠組みとか あるいはその抵抗運動することで自由になるみたいな まさにリバティみたいなもの っていうよりは確かに我々の感覚で言うと 自由になるってことはどういうことかって言うと 自在に動けるようになるっていう 僕らこれ日本語の感覚として 自由って言うとある意味こうなんか 日秘の味方じゃないけど目指すべきものみたいな ちょっと知識的な感じ 強いあるべき姿みたいな雰囲気が出ちゃうんだけども 自在ってなんかすごく楽しそうじゃないですか まず音の感覚として 確かに武道というのが基本的に自在になるっていうのが 修行のためなんだ 目的なんだみたいなことをおっしゃっていて めっちゃわかる気がすると思って いいですね 僕もリベラルアーツを教えた時に 自由になるためのっていう言い方にするんだけど 自由自在っていうネットでは言うのよ 僕が自由自在っていう時の 内容って要は 消極的自由と積極的自由っていうのがあるよねっていう バーリンだったっけ 消極的自由っていうのは干渉されない自由があるよね 例えば何飲むかとか何買うかとかっていうのに制限がなく それはそういう自由が消極的自由 積極的自由の方が自己実現するための自由ですよね 本来の自由に生きていくやりたい仕事をやるとかね それが両方セットなんだよっていうところだけど 自由っていうのは縛られてない状態で 自在というのは自由に動ける状態 消極的自由の方が自由っぽくて 積極的自由の方が自在っぽいなっていう印象があるなと思ってるんだけど 今の話を聞くともうちょっと身体的だよね 自在っていうのは多分身体値として ここに行くことが正解であるまでわかるみたいなレベル ここに行った方が自分の身体の可動域がさらに広がる ポテンシャルが上がるとか可能性が広がるみたいなことを 直感的に選べるみたいなのが多分自在っていう感覚だろうな 内田さんの感覚で言うと すごく内田さんが言ってることは僕はすごく大事だし わかる気がするっていうかこうですよねっていう風に 僕なりの言葉で言い換えておっしゃる通りみたいになって やっぱこの感覚はつながってると思えて 自在って 下手すると相手を操れるみたいなイメージになっちゃうかもしれないけど やっぱそこで今で言う自在ってやっぱ違うんですよね やっぱ自由って言うとみんなを引き寄せて あっちに行くべきだみたいな べきみたいなものが出ちゃう気がするんですよね 自由っていうキーワードって強いというか 価値判断あるいは道徳的に良いことみたいな 価値観されてるキーワードになっちゃってる気がするんですよね 自由って言うと 時にやっぱ自在っていうのってすごくこうなんか 自分の体一つでできるみたいな 正しいとか正しくないとかじゃなくて それって楽しいですよねっていう まだ語られてないから ちょっと後ろっぽいっていうことはあるだろうね だからやっぱり鎖っていう話じゃない 自由の対義語って 対立イメージと鎖に縛られるみたいなところがあって 言葉の定義をしてしまったときに じゃあそれは自由じゃないよねっていう 自由っていう言葉の定義 自由という言葉にも定義があるっていうこと自体が まとっている矛盾っぽいものっていう 言葉の力みたいなのっていうのがあったりとかするから そういう意味では 今現在自在の方がいいだろうなっていうのは思うね 自在の方がそうですかね 何者にまだ染まってないというか あとやっぱりよくある自由の問題って 自由にしていいよって言われると困りますっていう 何していいか分かんないんですけど 自在が分かっている人って もうご自由にどうぞって いいんですかって突っ走れるのが 自在の感覚だと思うんですよね サルトウだよね 人間は自由の権利に称されている 自由にやってくださいって言うと困る生徒たちがいるわけですよ 自由とか言われても何やっていいのか分かんないですよね ある程度何か決まっていた方がいい それは何だろうな 松岡成吾風に言うと やっぱり編集方針というものだとか エディティングモデルみたいなものがあると 自由にできる 武道に内田さんとかに寄せるんだったら 型を知ってるから自在にできるっていう話じゃないですか やっぱりその型を知って 型を守って型に出るみたいな 守張りみたいな感覚っていうのは 自由を手に入れるための一つの 王道的な方法なんだろうなと思いますね 型があるからそこから揺れたり逸脱した時に 気づけるっていう 今自由だったなって気づけるみたいな 今自在に何かができたのか 判断基準になるよね 型があればね あるべき場所がある それこそ自由とか自在で言うと まさに型があるかどうかで言うと 俳句とかね 歌を読むみたいな時に やはり山田さんだと そこってやっぱあれって自由というより 自在っていう方が多分 良い句を読める人ってのは あの人は自在なんだろうなみたいな そうだね自由自在 自在よりかな 書くっていう行動自体が ポイエーシス的というか レプラクティス的というか 特に俳句みたいなもの 詩文学みたいなものが そういう傾向があるけれども 韻文化 そうですね 自在じゃなければ 韻文にならんっていうのが ありますから 結局テオリアでどうにもなんない話 なんですよ 詩の世界って テオリアで論文は書けるけど 詩は書けないわけで 結構俳句の研究者って 俳句書けない人が多いんですよ あーなるほど 研究けど実践ができない そうそう 自分はあくまで研究対象としているだけで 自分が読めないですね 逆に俳句やってる人 実践で俳句やってる人は 論文の方が多分 いやそんなの論文になんかできないんですよ 落とし込んだら その句の反覚というか 詩制みたいなものが死んじゃうよっていう そうそうそう っていうところはありますよね 詩を語る詩は書けるけどとか なんか詩ですね 読むようなくみたいな ようなだよね 多分ね あくまでだからアナロジック そうそうそうそう それが何かを示しているような 読むということはどういうことかを示すような 歌は作れるけど って感じかもしれないですよね 歌そのものは でもまさにそれ漢字の通りで 自在って自らあるって書くわけじゃないですか はいはい すごいめっちゃ仏教みたいな まあそう 自らあるっていう 自らある 自然みたいな そうそうそうそう そう津田さんがやっぱり言ってたのが その修行 合気道的な武道の修行で一番重要なのは 自分をいかに透明にできるかどうかだって 透明性みたいなもの 身体が透明になるってこととか あるいは器になれることだっておっしゃってて だから多分それってまさにね 自然とか自在っていうのって確かに うーん そう 多分それって多分 もう一個あるのが まさにそのまま 自然の場合とかってやっぱり 現代的に言うと じゃあ主体性ってどこから出てくるの?みたいな はいはい 要は今の話ってこんな つまりアホダンス 環境に導かれて何かをするっていうのが なんか 若干悪しきものになってるのが トランプ現象以降 そのネットの情報に煽られちゃう つまり導かれちゃうとか あるいはそういうね ソシャゲとか あれの方がすごく社交心を煽るというか ここでやめるんですか? ここで500円課金したらもっとこんなことできますよ ってなると サンクコスト ここまでこんだけ費やしてきたんだから ってなってついて課金してしまうみたいな そういうつまり ナッチっていう言い方がいいかもしれない アホダンスの設計がされてるわけですよね 我々を虜にする何かが うーん そう でも多分やっぱり内田さんの話を聞く限り やっぱり 身体が心地いいって思える つまり正解は 自分の身体が心地いいっていう動きができる っていうことが 正解だって思えることなんだろうなと思ってて なんかつまり最近なんかその 人との境界が曖昧になるって時に 僕は基本的にそれが良いことと捉えるんだけども どうやら人に合わせてしまう うん っていう人が結構一定数いると でもやっぱそれって人に合わせながら もうそれ気持ち悪いんですけど ちゃんとブレーキを引けるかどうか っていうのがおそらくその 自在であることと同時に それは気持ちが悪い これは気持ちがいい これは愉快である これは不愉快である がちゃんと分かんないと多分確かに 全部導かれちゃって本当に 虚ろになってっちゃう まあだから合わせるか合わせないか 自分で自己選択できるっていうのは 要は自在なわけで そうそうそう 結局その自己決定もそうだし なんかね僕が言ってる リベラルアーツというものが そのいかに選択肢を認知して 選択肢を作り出して で選択していくのかっていうところ っていうのは自在性だよね その自在性の厳選っていうことを考えると 能動受動論争みたいなのがあって 能動的であることと主体的であることっていうのは ほぼ同義で取られがちになると思う 例えば仏教的な考え方をすると 能動なんかないからっていうのがあるわけ 演技であるとかね 演技とか機 演技というのは 能動か受動かって言ったら受動なわけ 受動しかないよね ただそれを悟れるかどうかっていうね 全ての因果があって 今ここの出来事が生じてるっていう 認識ができるかどうか 主体性って認識のレベルな気がするんですよね すごい熱中したけど あれは確かに自分がやった出来事だった っていう感覚があるかとか ダニエル・デネットっていうと 自由はない 自由意志はないけども ないんだけども 自分のこれは 確かにそれは私の責任であるっていう ナラティブを持つことができる つまり責任を物語ることによって 責任は確かに 酔っ払ったけど俺の責任だっていう以上 自分の自由 つまりやらないこともできたっていうのは 後から派生すると リアルタイムには それをしないこともできたのにはできないんだけども 例えば後悔することができると リグレット 後悔することができるってことは それをしないでいることもできたはずなのに と思うから僕らは後悔するわけで もう一回人生をやり直しても 同じことするだろうと思う覚悟があれば 後悔はないわけですよね まさに仏教的にしょうがないっていう そういう縁起の流れの中に乗ってしまってたのだ っていう なんかこのすごいアジア的 あるいは日本的なこの底面 そのもう流れがあったんだから そこに乗った以上しょうがないんだっていうのと でも自分の心地よいものっていうものを 選ぶっていうのって 一見すると矛盾するんだけど 僕はここを調停できる気がするんですよね つまり主体制 その導かれるんだけども主体制も成立するみたいな いや本当にそれね 両方成立すると僕も思う そこの微妙なギリギリの どっちに転ぶこともなく ど真ん中を歩けるっていうのが まさに教養というか 他者と共に仲良く生きていけると同時に 私らしさも成立するっていう 普通するとこれどっちかに行っちゃうような気がするけど 僕は全然両立できると思うんですよね 両立できるし選ぶこともできるし やっぱりジョン・ケイジがやったみたいな 選択の方法っていうのを 随所に入れてみるみたいなことを 僕も実験的に若い頃やってたことがあるけれども じゃあ今からこういう選択とこういう選択がある サイコロで決めようみたいなことを あえてやると じゃあそれって自由なのか不自由なのかっていうのは それぞれ捉え方はあるけれども 結局丸々だったはずだっていうことを 覆す根拠にはなるんだよね 偶然性を介入させるってことですか 偶然性を介入させる意図的に そうするといやいやまだ全然選択の余地ってあるじゃんっていうか 逆に自由を感じられるようになるというか 全然台紙でこっちが出たらこっちやってたし こっち出たらこっちやってたし 全然その先の未来は変わってたよねっていうこと だから多分ね僕は内田さんとね 僕が聞きたかったのは 今後内田さんとの対談本を作ってるんだけども そこで内田さんに僕が聞きたかったとか 多分僕も考えた一種的に 愉快に生きるためにはどうすればいいかとか あるいは愉快であるための作法みたいな 愉快というのはどこからやってくるのかみたいなことを 内田さんにもいろいろ聞いたときに 割と共通のキーワードかなと思ってて そうで多分愉快であるってことと 多分偶然を楽しめるってすごく近い気がするんですよね 何か偶然を楽しめないと愉快じゃないし 偶然を排除するっていうのは安心かもしれないけど 愉快じゃないっていうか 確かに でやっぱり今の現代的な病って 偶然が怖い 予期せぬもの、未知なるものが怖いみたいな でも愉快なものって 未知なるところからやってくると思うんですよね それはだって笑いっていうものがさ どこからくるのかみたいな 結局想定外だから面白いわけでさ 想定っていうのはさっきの肩の話と一緒だけれども 肩がなければ笑いようがないみたいなところがある 膝かっくんというかね 膝が突っ張ってるから膝かっくんのときの なんかハーンってなるっていうさ 違うんかいっていうのもあるし 違うと思ってたのに同じなんかいもそうだし 結局それってどちらに転ぶにしろ 肩っていうものが基準にあるからこそ ずらすっていうこと あるいはずらさずやること自体がずれているっていう っていう笑い快逆性が出てくるわけでね たぶんそうねだから 偶然性ってキーワードはやっぱなんか 絶対そこに何か自由の秘密も隠れてそうなし 偶然をあたかも必然かのように生きるが 自在ってことかもしれないですね たぶんたぶんなんだけど こうなるのは極めて自然なことであって 待っておりましたって言えるような こんな出来事が起こるということは 私は実は私の無意識は待っていたのだって思えると 偶然を招き入れるというか 偶然に対しておもてなしができるというか なんかすごく僕リベラルアーツって 突き詰めると他者も偶然性を帯びるものの代わりじゃないですか 例えば子供が予期せぬ病気になっちゃうとか 予期せぬ怪我をするとか ある意味偶然性だから子供が危なくないようにとか あるいは自分の親が亡き世界でも子供が生きていけるように 管理したり支配してこういうことを身に付けなさいとなっちゃうんだけども それってこの子に予期偶然の訪れますようにって祈れるかどうか 偶然を編集しようとする姿勢みたいなもんなんですよ 時代ってそこにある気がする 西座とか空気収蔵の世界になってくるかな 偶然とか言い始めると どちらにも行くでしょうね なんか僕ずっとね 偶然っていうのは哲学的なテーマとして大きいじゃないですか 偶然必然みたいな あれ?これは西座?空気?空気だな だからいつか手を出さなきゃいけないんだけど すごいなんかどっからどう手をつける 愉快に生きていくためには偶然に身を晒すとかね 偶然を招き入れる 三極? そうだね だから結局需要と定念っていうものと 偶然というのは非常に近い 関係だから じゃあその偶然というものを意識するのか いないのかっていうところもあるけれども 結局生きかどうかっていうのを 偶然と共に生きれてるかどうかっていうことと すごく近いわけですよ 最近思うのが ちょっと多分つながるんですけど 偶然と必然って 縁起ってキーワードを入れると めっちゃ簡単に反転する気がしていて 例えばヤギさんとも知り合ったのも めっちゃ偶然じゃん そうですね偶然 共通の友人がつないでくれたというか 今ここで喋ってるわけじゃん これさものすごいさまざまな原因と結果の 果てに今この時間があるって思える ってすごく大事な感覚な気がするんですよね つまりどこかでバトルファイナルエフェクトで どこか一個でも何かが違ったら 今日この夜が成立してない 今日この瞬間僕らがここで喋ってるという出来事は ものすごくさまざまな偶然と さまざまな分岐の果てに ここにたどり着いたっていう でもそれは多分今この今 この時間をもって過去を振り返るから さまざまな分岐があったって見えるだけであって 過去から見たらもしかしたら 一本水でここまで来たんだろうけども 最近そういう感じる時があるんですよね 今ここの瞬間ここに僕がここにたどり着いた この場にたどり着いてるってことは ものすごく全ての演技がここに集約されてるんだって 自分の身体を超えた大きな流れに乗っかれてるっていうような感覚 それの感覚ってだから偶然であると同時に さっき言ったこの偶然を私は待っておりましたみたいな バタフライエフェクトが起きるようなポイントっていうのも それは世界線が変動しますよみたいな話になった時に 変動可能性とか 結局就職A選んでもB選んでもC選んでも 大体ここに行くよねみたいな選択肢と 外れ地みたいな ただしこれを選んだ場合は 違う方に行きますみたいな 脱世地行っちゃいますみたいなね そうそうそうっていうのがあるわけなんだよね 例えばあの時にチーさんと会ってなかったら 会わなかったんだもうもう二度と会うことがない 出会わずに人生を終えるのであれば それはすごい外れ地の選択をしたわけなんだけども そうでなかったとしたら あのタイミングじゃない どこかでまあそのうち会ってたでしょうね っていうのはあるよね でもやっぱりそういう風に振り返って 分岐点みたいなものを振り返ってみると これ完全に外れ地だったなみたいなのってあるじゃない あれは全く偶然であるみたいな もう完全なる偶然である あれを100回やり直して もう100回しか一回しか起こらないだろうみたいなね そうね 僕はあるとさっき言うと バタフライエフェクトをかなり狭くとってるから まあ収束するだろうって思えないですよね あーなるほど あの日あの時あの時あの時で君に会えなかったら っていう風に僕は結構思うんですよね 選択肢をやっぱり職業病というか それを研究テーマにしてるからだけども ものすごい認知するのよ ハーバードかなんかの 人間が一日に選択するのは 3万5000回みたいなやつあるけども もちろんどこからどこまでで選択かっていう定義難しいんだけども でもそういう観点で見ると 俺は割ともう 毎回一つの授業の中でもう選択肢っていうのを ものすごいたくさん用意してる 数あるのよ やっぱり数を用意すると 割と収束する線がある なるほどね この話してもこの話しても まあこっちに行くよみたいな それはあるか 数用意しなければ 要は得意点ばっかり認知していると それで言うと僕は この出来事っていうのをすっごく狭くとってるんだ ヤハギさんといつか知り合うだろうって 結構大きな出来事 含める出来事の言い方じゃん この形で こういう経緯で こう知り合える まで狭くすると確かに この道しかないんですよね あの時に偶然 出会うことになって ファースト風造展に 電車に乗りながら帰って 話をしてその後 今日ここに至るまですべての それをストーリーとして点の連続として考えたら あの時にあそこで会ってなかったか この連続性はなかった 似た出来事にはなるけど ヤハギさんは似てるイコール結構同じって捉えられる 僕は似てるけど別物って思っちゃう それは大事な感覚だよね 構設が重要って話です っていうのがもしかしたら感覚として これはだから情報量 処理してる情報量の違いだと思う それに関する 普段から言ってる選択肢とか 俺が感じてる選択肢に関して プロセスを全部感じてた 扱えないからちょっと抽象化してるっていうのはある ある意味ヤギさんがそうじゃないってわけじゃないけど 多分僕の眼差しの方がより文学的 一個の出来事の中に宿る何かを探そうとする性癖がある なるほどじゃあ三島だね そうなの多分 僕は何か惹かれるんだよなっていうのがあって やっぱり同じね 性癖が近いんでしょうね 特徴とか長所じゃない絶対 性癖が近いだけっていうね それは感じるな だからロマンチックなものとか 美みたいなもの 三島の言ってる美っていうものと 谷崎が言ってる美ってやっぱ違うし そうだね 僕谷崎はずるいなというか こいつたぶんニヤニヤしながら この物語描いてるだろうなと思う 苦しみだからこの物語を 解像度を上げて上げて上げてっていうことをやってるからね 僕は三島の方がシンパシーがあるというか それはやっぱりありますね 谷崎はずるいなと思いながら いや面白いし美しいんだけど こいつたぶん本当にニヤニヤしながら描いただろうな 谷崎と思うけど 三島は苦しみだからこれを描いただろうなっていう そういう意味ではどっちが自由だったんでしょうね ねえ 三島は自由を求めてたようにも見えるし でも自由を否定してたようにも見えるし 縛られる中に美を見出すというか 単純に三島は臆病だったと思うんですけどね 臆病さというか 自分のことを認められなかったんだろうなみたいな 谷崎はそんなこと関係なくとりあえず描くみたいな 根の明るさみたいなのはあるんですね そういう分類というか分析をしていくと 結構文言ごとに色々あるよね 芥川の自己認識はどうだったのかとかね 秀男小林はどうだったのかとかね そうなんだろうな 自由である 偶然というものが 今僕の中でこんなに偶然をちゃんと考えなきゃなみたいな そういう意味では自由だと思う人っていうのを 今頭の中でバーッと挙げてみたんだけど やっぱ敗戒師になるんだよ俺はね たぶん青木さん的にはそういうとこに行くだろうなみたいな 僕が一番好きというか 自分がずっと関わってた敗戒師が たからい企画っていう 松尾賀生の一番弟子だった人で もう名廷の敗戒師ですよ 常に酒飲んで常に酔っ払って 適当なこと言ってる っていうスタイルからして もうすでにっていう話じゃない でもその中ですごいゆるいというか 柔らかいウィットに富んだことを言うみたいな自由がある 言わない自由もあるし 世間の評価とかも気にしない自由もあったし どっか行っちゃう自由もあったしみたいな 敗戒的な生き方は 三等歌なんかもそうだと思うけれども 敗戒極めた人みたいな 人は自由っていうものとめっちゃ向き合ってたんだろうな むしろめっちゃ向き合うことが自由かどうかわからない 向き合うとかね 常にっていうのも囚われてるかもしれない 向き合わないように努力してたのかもしれない でも向き合わないように努力したったらそれは 囚われてるっていうね 囚われないっていうのは主題化できないですよね 囚われちゃダメって段階で 囚われちゃダメっていうのに囚われてるのでっていうね エピクロスなんかもそういうことを考えていたんだろうな っていうのは感じるけれども 仏教的な観点になりそうですね 無意であることとかね 無意であろうとすることは違うし 無意ね 何も考えない練習とかって若い頃しなかった? 寝る時にやりますね 寝る前からみたいな 頭がずれてる いかに何も考えない無を作るかっていうのが すごい難しいなっていう風に思ったのが 中学生の時から どうしたらいいだろうって 無を想像しないと追い出せないみたいな じゃあ無って何だろう とりあえず暗闇を想像する それは暗闇を想像しなきゃいけないっていう これあかんなみたいな やっぱり 某が我を忘れるって書いて某がとか あるいは自分を脱するって書いて脱辞 もうちょっと短く言うと没頭する 後で気づくやつだよね あー今そういう仕方なかった 言い失ってたわみたいな そう でもそれって アフォードできると思うんですよね それが多分前回の遊びっていうキーワード 多分没頭してる時 自分を離れちゃってるとか 遊びの外の自分がないっていう 遊びの中の自分しかないっていう瞬間 そこも僕はバランスだと思ってて 考えなければいけないっていうのは 堅苦しいし 考えなくていいっていうのも なんかちょっと違うし どちらかをコントロールせよっていうのも またなんか違くて コントロールしてもしなくてもいいし できることがあるかもしれないけど できないこともあるかもしれないし でもそういうメタ認知の果てに なんとなくバランス中道中用みたいなのが あるのかなと思うしね 結局そういうようなところで 行ったり来たりしている大人っていうのじゃないと そういうものってナビゲートできないんだろうな っていう教育の中では思うしね 何かに熱中する 何かに没頭するという感覚を ちゃんとメタ認知できてないと 再現ができない 計画してるわけではないのに 感覚で これ没頭いける気がするこの後っていう風に 予感があるみたいな それって没頭し終わった後に 我に返った時に どういう風なメカニズムであれが起こったんだろう あの時の感覚ってなんだろうとか なんでこういう状況になっちゃうんだろう 僕没頭すると記憶なくすんですよ うちさんと喋ったのは ギリギリ覚えてる範囲で 音声は残ってるから後で聴けばいいんだけど 書籍飾れるからいいんだけど 日勤して人と喋ってる時って 自分が何喋ったか相手が何喋ったかって 相当記憶がないんですよ 楽しかったなしかだけ残ってるんですよ でも言われれば思い出せるんですよだから 記憶の メモリーの場所が違うときに 格納される感じがあるんですよね 熱中してる時って記憶が 普段の健在的な意識の格納される 記憶容量じゃないところに メモリーが格納されてる気がして これ何なんだろうな 身体勢だと思う チャリ乗ってるみたいなのと同じ だからとか覚えてないとか どうやって足を動かしたとかないから 手続き記憶に近いのかな できるし感覚は分かるんだけど 具体的に あの時どう楽しかった 内田さん何喋ってたって言うと 健在的に言うやつはできない 喋ってるし 呼び水のように 自分もこういう話をしたんだ ってのは引き出せるんだけど 意識的に検索ワード入れても 出てこないみたいな 俺も松岡さんと喋った記憶ってね 消えるのよ メモっとかないと分かんない 当時は そんな録音とかもしなかったからさ 一生懸命 話終わってから 忘れてしまう気が してたのよ 自分では自覚があったから 松岡さんと喋った後にはとりあえずメモしとこう みたいな習慣はあって あれ不思議だよね だからそれがトリガー っちゃトリガーじゃん 俺の場合だと松岡さんと喋ってる時は 一生懸命喋ってしまう 集中してしまうから ゾーンに入ってしまうから 多分ちゃんと 聞いてちゃんと返さないと 怒られるかもしれない みたいなのもあるかもしれないし あるいはもっと引き出したい とにかく真剣にやらないと無理だから 自動的に真剣になる じゃあトリガーは松岡さんなんですよ じゃあ松岡さんと話す時には それが始まるんだから 始まるの分かってたら対策ができるし 始まった後に忘れないうちに メモすることもできる ただそれは小さな場合だったら とりあえず内田さんと喋る時には トリガーが入ったっていう経験をして じゃあ次からそうなるんだろうな ってことは予測はできるわけですね いたるところで オーディエンスとして 誰かのレクチャーとか面白いなと思って 聞いてる時は全然覚えてられるの 自分がそこに一言でも関わらなきゃいけない って時の脳の回転をした時の 自分がもういなくなるっていうか なるほどね 音差ってあるじゃん 共鳴するとこっちが震えるみたいな 音差になってる感覚 その振動を受け取って その振動にいい振動を返せるかどうか だけだから物体になっちゃうから 外から見るとめっちゃ近いうち喋ってんじゃん だけど 自動運転モードになってるというか 特にアドリブで行く時って 自動運転モードになってる 意図とか メタ的な意識をなくすっていう そうしないとちゃんと対話できないから その場で喋る 意味がないっていうかね お互い書いたもの見せ合えばいい わざわざ今ここで喋る必要ないし 結局対話をしようっていう風に 体が準備してる脳が準備してる状態になると そうなりやすいんだろうな 記憶がなくなるの 記憶がなくなるっていうか 違うところにメモリー記憶がされちゃってて 意識的に どんな話が出たのその時 お互いいいこと言ってたの覚えてるんだけど 何を言ったか覚えてない とにかくめっちゃ楽しかった めっちゃ盛り上がった すごい大切な時間だっただけ覚えてるっていう だからまさに具体的に言えなくなっちゃう っていう 一応録音するようにしてるんだけど そういうことが起こりそうなことは プライベートで飲んでたり喋ってる時にも 怒るんですよ でも相手も一緒にその場 めっちゃ楽しいんだけども 覚えてないですよね細かくが 笑ってるとかなくても だから言われるとあの時こういう話 あーその話したわとかね きっかけがあれば呼び出せるんだけど その記憶を 自分で意図的にメタ認知して 今日はどういう話をしたってか出てこない 枕言葉とか覚えておかないと どうしてもその先が出てこないよね そう一個きっかけがあればね あーその話したらそういえばってなるんだけど なんかね僕最近ちょっと悩みなんですよね そんな大切な時間だったら だって 僕結構そういう時めっちゃ いいこと言うの これ書けるじゃんだけど覚えてないの でもさ音声取ると短くらいあるから どこで喋ったっけな自分の聞くのも めんどくせーしなーみたいになっちゃうから だから周りのが覚えてくれてると 嬉しいんですよね 俺やってたの いいこと言うね俺 これから今から 話す話キイチさんが言うことは全部覚えてます って言われたらさ 同じモード入れる 言わないでほしい 言わないでほしい 初期にはなってもらいたいわけじゃなくて プレイヤーになってもらいたいから なんだけど 淡々とね でもね自分のいい球投げたことを いい球投げたなだけ覚えてて どんな球投げたの覚えてない 分かる分かる やっぱ対話する人は 大体みんなそうだと思うよ いいこと言うに決まってんだよ いやまさに即興でさ ギターのソロの時に もう一回あれ弾いて いやもう弾けないみたいな 録音したやつももう一回聞かせてとかなんないと 弾けないじゃないですか あの瞬間だから起こった早弾きみたいな 結局ライブ版の良さってそこだったわけだよね どう考えたって音質はスタジオテイクの方がいいんだけども でもなんであえて ライブ版 何か知んないけど出たってやつが 収録されてるから まさにアウラがあるんだよね 同じ楽譜で同じ楽曲でも 唯一無二の 一回こっきりのものに変わるんですよね そこに我々は 立ち会いたいと思うんですよね トークであっても音楽であっても ゲームであっても ゲームって試合とか 立ち会いたいのよ 一回生のアウラに立ち会いたいっていう だから音楽業界がCDがなくなって 全部廃止になって 売上が下がったからめちゃくちゃ上がったわけだよ みんながライブ来るようになった それは健全というか 身体性の回復 でもあると思うんだよね ライブに行く金があったら ライブなんか一回行ったら終わりじゃないか だったらCDを買うっていう人が 多かった80年代 があったわけです 90年代とかね そう考えるとだいぶ人間性は 回復してるんじゃないかな という気はするよね ね そうやっぱなんだろうね でもやっぱこれ本質だと思うんですよね 再現性がないというか あの時あの場ではそれが起こったんだっていう 近いものは起こせるけど 同じじゃないよ 別のものは起こせるけど また別のものになると思いますけど 絶対違うっていうことはね 圧倒的に身体でわかるってすごい大事だと思って 俺写真を仕事にしてたことがあるから ずっと絵っていうもの比べたときに 絵はすごいアーティスティックであり その 唯一無二感がある 写真なんて同じところで同じカメラ撮ったら 同じ写真撮れるんでしょっていう風に思っちゃう 違うからね じゃあ撮ってみ絶対撮れないから むしろ 絵の方が自分の中のものを 出すっていう話なんだけど 写真は完全に現実とのコラボレーションだから 現実の方がどうなるか その時の光の加減がどうなのか 出度がどこなのか 全部全く同じ寸分違わない 瞬間なんて訪れないわけで でその 同じ写真は撮れねえんだっていう風に思ったときに 一回性の 価値みたいなものってのはものすごく 明確にわかったんだよね そういう体験だとかをするっていうのは すごい大事だよね AIでできるできないっていうのも なぜAIがこれだけね いろんなことができるようになってくると なおボケてくると思う そんなAIでできるじゃん できねえからっていうことが わかるかどうかっていう この解像度を 持てているかどうか 今結構俺はあえて 音楽AI 触れてるんですよ 確かにすごい そこまでできちゃうんだすごい だけど自分で音楽を 作ってきた人間としては 全然違うな っていう風にしか思えない これはこれですごいけれども 全然こっちとは違うから っていう 明確な違いがわかると逆に 安心感だとか やるべきことだとかっていうのが見えてくる メロンとメロン味が違うとか なるほどね カップラーメンはラーメンじゃねえんだよ みたいな感覚とすごく似てて あー違う似て非なるものね ちなみにちょっと脱線かもしれない 僕ちょっと興味あるけど聞きたいんですけど 写真ってうまく自分の中でね うまくっていうかこれは よく撮れたって思うときって 自分の目から見たものに近いときですか それとも自分の目を超えたものを撮れたときですか だからそれはね 人によると思うんですよ 例えばマニュアリズムみたいな話とかね バロックみたいな話を するならば自分が見たものを 超えたときに要は 自然を超えたときに神を超えた表現 みたいな風になるわけじゃないですか だからそれは こんなの撮れたなんて思わなかった すげーっていう風に思う人もいるし でもプロの世界でいうならば 思った通りの写真が いかに撮れるのかが仕事が 撮れるプロのやつなので 写真家としてプロで やっていく人達っていうのは イメージ通りの写真が撮れるかどうかの 差分がなければないほど プロフェッショナルっていう風に言える 僕 人の目を超えたものは写真で撮っちゃ ダメな気がするんですよ それじゃああなたが撮る 甲斐がなくないと思っちゃうの それは偶然取り込むっていう話じゃない それはあるけど あなたから取り込めた偶然なんだよ っていう風に思う あなたの目があったからその超越が起こったっていう 僕が写真を見たときに この人は世界をこう見てるんだ って感じられる写真がいい写真だと 僕は思うんですよ この人はこんな世界 こう見てるんだすげーっていう写真 バーチャルあなたの眼球って話だよね 画面写真に出てるの その人の眼球なんですよね その時にすごい と思うから 僕はリアルなその人の目を見たいからかな それはすごい写真家なのか すごい写真なのかの違いだよね なるほどね 俺はすごい写真はいっぱいあると思うし 子供が偶然撮ったすげー写真だとかも すげーと思うし それは俺はどっちも評価するタイプ もちろん俺がどっちも評価するタイプだから プロの写真家としては 適性があんまなかったっていうのは多分あって いかに思った通りの 画像に近づけるのかっていう技術 差分を埋めるのか あるいは予測できるのかっていうところが 大事だよね 僕は写真を通して その人がこうやって世界を見てるのか あるいは人間は こんな風に世界を見ることができるのか っていうことに圧倒されるのか 人間の目の可能性を 開いてくれる写真 分かる分かる 僕がやっぱ写真ってなんだろうと思ったときに 誰か写真をたまたま撮った人が 見たときに この人の目は こう見てるんだ世界をと思ったときに 写真ってすごいなって初めて思えたんですよね それで世界の祝福の仕方なんですよね きっと 僕は世界をこう見てるよっていうのを そう だからあんまり 身体的なレベルであんまり自分の目を超えてほしくない っていうか写真は 写真哲学みたいなことはね いろんな写真哲学の人たちもいるけども まだ俺が一回ね 藤原真也さんっていう 非常に日本を代表する写真家の一人ですけども 彼に自分の写真を見てもらったことがあって そのときに藤原さんから 君さ これは写真かね っていう風に問われた 写真とは一体何ですか それは 僕が撮ってきた写真っていうのは こういう写真ではないと これではないと 君が何を写真と思ってるのかが問題なんだけど これが写真なのか 彼が撮ってきたのは一体何かというと 被写体がこっちを向いてるよね それは写真と言っていいのか っていう問いだったのね つまり撮影する眼差しが そこに存在してしまってるってこと こっちを見てるってことは あなたと私になっちゃってるってこと おそらく藤原さんが おっしゃりたかったことっていうのは カメラが介在してるよね あなたがカメラというか カメラを通してファインダーを見てるのは あなたか あなたがファインダーを見てるのは あなたがそこに行っちゃってるじゃん だからこの被写体はカメラを意識してる カメラを意識して撮られた写真っていうのは それは写真と言っていいのだろうか っていう問いだったと思うのよ ストイックな 神が見てるかのように見ろってこと でもね その当時の報道写真だとかの世界っていうのが 基本的に客観的な写真がいい写真 っていうのがあって 俺は フッサルじゃないけども カメラを見てるんだよっていう前提に立ってる人間だから それをあえて 客観を消そうとして撮ること自体が 囚われている そうじゃないと 普通にそこに行って 写真を撮った スナップ写真なわけですよね その方が主体性が消えてる カメラが消えてる気がする そういうものを介在化させなければ 日本のジャーナリストはダメになる と思ってたから すごいそこで 葛藤はなかった なるほど そういう感じかっていうのは 非常に勉強になった じゃああえて抗っていこうみたいな感じで 一緒にやってる写真家たちには 全然主観でいこうぜ どうせ主観から逃げられないんだから 本気で伝えたいものを 本気で撮るのが一番いいと いううちのスタイルみたいなものが そこで完成したみたいなのはあった でもカメラを意識させないってことは そこにカメラがないってことであって つまり どこの場所から 撮られたかってことすら消せってことじゃないの 極端に言うと そこまで極端なことを言ってたのかどうか分からないけど 幽霊の眼差しで世界を眺めるみたいな 結局それって 堂々巡りっていうかさ 絶対にどこの落とし所でも 矛盾が生じる話だよね 空間内にだって存在するわけだから カメラは 何イズムにしますかっていう話だった どのイズムが起こるか そうそうそうそう どの流派に乗りますかっていう そうそうそうそう 僕はそこ生身の人間がいるから それを見てるんでしょって思うからね うん そんな潔癖な世界から 消えた場所から見るっていうのは それはどこなんですかって 俺はどちらかっていうと 昔からマイノリティに堅入れするっていう傾向があるから そういうのが業界で評価されないんだったら じゃあ俺はそっちを そっちを俺ら評価する みたいな感じだったからね うん 今だったらまた別の考えになるのか まあそんなこんなでですね 結構喋ってしまいましたけど やっぱ自由は 長くなる 永遠に喋れるやつですね 終わりの時間をここまでだと思って喋ったら自由じゃない そうそうそうそう 一応当初我々は何時間で終わろうとあったんですけどね 今日は早く終わらせるつもりだったよね 上からのオタシだったから 今日は でも自由にやりましたよ オタシを無視する というわけで 今日は自由について 自由に話してみましたけども まあなんかね やっぱ喋りながら思いついたこともたくさんあるので また引き続き 今日話した 引き続きながらいこうかな という風に思います お付き合いいただいている皆さんありがとうございました えー やはりと 時間落ちでした みなさんおやすみなさい もっと見る #哲学 #リベラルアーツ #近内悠太 #矢萩邦彦 リベラルアーツ探究実践Radio矢萩邦彦|ArsCombinator47:321.【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』自由自在編コメント感想・質問・応援メッセージを書こう yuki saya2025年9月6日はじめまして!おふたりの掛け合いと空気感にハマり、対談回さかのぼりながらとにかく楽しく拝聴しています😂おふたりに出会え、この偶然、幸運です!!またご配信楽しみにしています!1返信 矢萩邦彦 | ArsCombinator2025年9月8日発見していただきありがとうございます! お時間が合えばぜひ生放送にも参加していただければ嬉しいです!
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