TOPトーク専門家リベラルアーツ探究実践Radio【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』詩情編51:01 2025年10月28日 134再生 問題を報告する 再生する シェアする 第4火曜日21:10に定番化しつつある特にゆるくはない生放送のアーカイヴ。今回は「詩情」について。付かず離れず、でもキレがある。めくるめくポエジーの世界。お楽しみ頂ければ幸いです。AI目次現代短歌に痺れた理由とは?俳句に必須の「切れ」とは何か?松本隆の歌詞作りの особенность?AI時代に残る「自己言及」の価値AIと共存するために必要な教養とはAI文字起こし(β版) # 【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』詩情編 今月4日火曜日、教養と哲学を考えるラジオです。 今日のテーマは何ですか?知事さん。 何て言ってましたっけ? 何て言ってましたっけ?さっき何か詩について話そうみたいな話を。 歴史上ってやつですね。 はいはいはい。 なんか、前ほらアフタートークでしたっけ? 知事さんもだいぶこちらに来たねみたいなことを毎回結構言うじゃないですか。 この放送終わった後。 つまり、ロジックじゃなくマジックの領域。 で、歌ってめちゃくちゃマジカルな領域だなと思っていて。 要は、説明してないのにその情景が伝わるとか。 あとなんか、僕らって言葉って口説丁寧にストレートに表現したいと伝わらないと思ってるんだけども。 はっきり伝えない方が伝わるというのが、その逆説が単価にはあるなと思っていて。 なんかそんなところですね。 なるほど。じゃあお伺いします。 現代単価ですごくネットとかNXとかでもすごく有名になった単価があって。 女性の歌人の方が歌ったやつでなんだっけな。 本当にあたしでいいの?ズボラだし、傘もこんなにたくさんあるしっていう歌がある。 はいはいはいはい。 一瞬ん?ってなりますよね。 本当にあたしでいいの?ズボラだし、傘もこんなにたくさんあるし。 ビニール傘いっぱい買っちゃって貯めてるって意味だなっていうことが、1秒ぐらい後にパッとわかるわけじゃないですか。 ここにあるロゴスというか、広い意味で取るとロゴスなんだろうけど、いわゆる狭い意味のロゴスを超えてるロゴス? ある意味通常のロゴスを裏切るロゴスというかがあって。 なるほど。 そういうのはすごく、特にヤマトの人間だからなのかなともあるんだけども。 現代単価にちょっと痺れたわけですね。 私は死の世界は現代史をずいぶんやってて、今本社の引っ越し作業を永遠に1ヶ月やってて、いろいろ出てくるわけですよ。 ちょうど20年くらい前にめちゃくちゃC書いてた時期があって、いろんな賞に応募してたりしてたりして、原稿がめっちゃ出てきて。 ああ、死っていうのはずっとやっていないと、感性ってやっぱり変化してしまう。 別に変化って悪いことじゃないんだよ。悪いことじゃないんだけど、やっぱり変わっていくんだな。 この時の自分はこれをテーマにこんな言葉が出てきて、この言葉の後にこれが出てきたんだみたいなのって、 時代だけじゃなくて自分の変容を反映しているところがあるなと思ってたりとかね。 だと俺は現代史の後に徘徊に行ってるんですよ。 単価っていうのはそんなに通っていない。一瞬だけ、やっぱり俳句だとか現代史ってものを通るときに寺山修司だとかっていうのは少し通るんだけども。 彼は単価もやってた。珍しいんでね。結構両方やってる。 そこなんか、俳句に行くか単価に行くかって結構な分かれ道なんですかね。 分かれ道。 土が付くか付かないか。 いや、占領に行くか俳句に行くかも全く違うからね。 なるほどね。 ただそのね、例えば単価と俳句と占領の共通項っていうのがあるんだけども、そこについてはあんまり語られてないんだよね。 5・7・5という、7・5調っていう音のリズムは一緒なんだけども、その3つに共通している部分っていうのが、 これだけ学校の子供の授業で単価も俳句もやるじゃない。やるのに全然スルーされ続けてきているっていう難しさがあるんですよね。 で、「詩って何なの?」っていうことを考えたときに、やっぱり僕が一番伝えたいのは三文詩っていう詩の形態があるんですよ。 三文っていうのは普通の文と変わらないってことですよ。 リズムとか形式をそこまで取らないってことですね。 そうそう。見分けがつかない。普通に句読点もあるし、みたいな。 じゃあ、それは三文と三文詩の違いって何なの?っていうことを考えるのが、たぶん一番、詩とは何なのかっていうことに憎白するテーマだと思うよね。 一番わかりやすいのは、本人が詩だと思って書いているかどうかっていう分類があるよね。 でもそれだと、アカデミックな方ではそれは人が言えるのか言えないのかっていう議論になってしまう。 これ俳句の世界にいると面白いんだけれども、実作する人と研究者って重ならないことが大半なんですよ。 つまり、読むって二つの意味があるけど、本編の方の読むをやらずに読解する方に回っちゃうっていう。 読解っていうか、単価を研究するようになっちゃうのか。 研究するようになっちゃって、研究者が実作できないっていうのがすごくあるよね。 その実作できないポイントっていうのが、そもそも研究者というのが、単価、俳句、宣流に共通するある部分っていうものがあんまり得意じゃないという感じですよ。 何だと思います? 【何が得意なのか?】 例えば、僕は俳句の層だから一番得意なのかね。 俳句で言うんだったら、俳句には条件があるんですよ。俳句であるためには。 記号っていうのがありますね。 記号と、リズムですよね。五四五の七五兆のリズムと、あともう一個なんでしょうか。 これをね。 本家取り的な感じではなく。 いや、それはちょっと和歌単歌的な考え方ですね。 もちろん本家取りすんのよ。俳句もすんだけども。 俳句って本家取りしちゃうと文字数が少ないから、ほぼ全取りみたいになっちゃって。 別にそれはそれで俳句愛の世界観としてはいいんだけども。 要は好きな、自分で俳句を書くことと、好きな俳句を選ぶことは同じくらいクリエイティブだっていうのが俳句愛の考え方である。 キュレーションみたいなことが、アンソロジーみたいなこともできるというかね。 並べ直すというよさね。 お互い線っていうのをやるんだけど、副解とかだとね。 選ぶの線。 お互い選ぶっていうのは書くのと同じくらい大事な。 これ変身する世界観だし、すごく俺も好きなんだけども。 答えを言っちゃうとね、キレなんですよ。 キレがあるかどうかっていうのが重要なんですよ。 なんなら、向きの俳句っていうのはあるわけで、 つまり記号はなくても俳句として成り立つんですよ。 象徴的な情緒があれば、共有できる情緒があれば、別に記号でなくてもいい。 それがわからないんだったら、最時期に載ってる記号を使っておきましょう。 そうすればみんなにそれは伝わるからね。 それは赤とんぼとか夕焼けって言ったら、みんな美しいでも寂しいみたいな、そういう情緒がちゃんと共有できるんですよ。 日本の世界ではね。世界観ではねっていうのが記号なわけで。 それと同じように働く言葉であれば、別に記号でなくてもまあいいわけ。 そもそも俳句っていうのは元々は連句から始まっているから、連句の中には全部が季節を表す句じゃ息が詰まっちゃうわけです。 季節と季節の間には象の句っていうか、向きの俳句っていうのが必ず入ってくるんだけども、それでもOK。 方詞号に関しても別に字余りとかダラスだとかっていうのは全然OKなわけじゃない。 八丁、俳句でも八丁っていう、丁を破ると書いて、シェラベを破ると書いて八丁って言うんですよね。 自由句とか言うよね。お酒放載だとかさ、あと三桃花とか種田三桃花とかね。 咳をしても一人みたいなやつだとかっていうのも別に俳句として成り立つんだと思うよ。 咳っていうのが冬の記号だから、記号はすごく入ってる。でも号詞号詞全然ないわけですよね。 じゃあ一体何が俳句、たらし目でのかと言うと、めちゃめちゃ短くて切れがあったら俳句って言っていいんだよ。 なんか僕さっき俳句とかの条件があった時に、説明ができないあるいは説明をしないみたいなところなのかなと。 それは同じなの。それのことを切れって言うんですよ。 それが言葉として自立した、音として自立した。それに余計な干渉をするために僕はこう感じたのを言えるんだけども、 読んだ人はこれ以上言わないっていうくらい言い切ってるっていうか、読み手としてはもう終わったっていう風に手を離れてる感じかな。 いやロジックは外れてるって感じなんだよ。説明ができないっていうか、その言葉以外でこれ説明できないんだよな。 もうちょっと分かりやすく言うと、分かりやすくない。どうしよう。 切れというのは飛躍なんです。だから僕が小林秀夫の文章が好きなのは、まるで俳句のように飛ばすんだよ。 飛んでる部分っていうのは読み手が想像しなければいけないわけで、解釈の仕様がたくさんあるんだけれども、でも明らかに飛んでることによって発動するグルーヴがあるわけですよ。 そこはセンスなのかな。ロジックをどこまで飛ばしていいのかっていうか、飛びすぎるとわけわかんないじゃないですか。追えなくなるっていうか、読んでる人が。 例えばね、こたつにみかんって言ったらこれは切れがないんですよ。近すぎる。こたつにはみかんあるよね。でもテーブルにサーベルって言ったらこれ切れがあるんですよ。しかもいんまり踏んでるわけですよ。 っていうのが、死と死じゃない世界観の崩壊線みたいな。 普通に繋がったら作文なんですよ。ただの。だけど普通はこの言葉の次にこれ来ないよねっていうアイディアがそこに出てくると、 サミダレやタイガの前に家2軒みたいな。武尊なんだけれども、サミダレですかタイガですかで家2軒。ドンってびっくりする。不安だな寂しいなみたいなところをそこで助形詞っていうのはその条件に自分の気持ちを重ね合わせるっていうタイプの それが切れなんですよ。だから研究者ってロジックで研究してロジックで説明しないとダメじゃん。論文書くのも。だけどロジックがそこでハマっちゃったら切れがないっていう風になっちゃうのが死の世界だから研究者は書けないんですよ。 でもさ、それは研究がすごく矛盾してません?だってロボスで分析できたらそれは詩でも歌になってないじゃないですか。分析しきれないし、この飛び方はこの飛び方以外ないんだっていうのが良い歌。分析ってまさに行きと野望の話ですよね。分析が野望になるっていう。 そうでも分析が野望になるから分析しないっていうのはこれはもう制作者側の発想なんですよ。だから本当に自分の句について説明するのは野望だっていう人とちょっとでも分かりやすくいつ書いたものをなんとかにキスみたいなものだとか配文みたいに自分で奥の細道みたいにもそうだけども自分の配文に対してちょっと文章をつけるみたいな。そういったやり方があるんだけれども それもそれを行きとする人と野望とする人とやっぱり実作者の中には分かれるよね。 あのね、その歌に対してどう自分が反応したかを述べるのはいいんだけども、そこに客観性も論理もない気がするんですよね。この音に対して僕はこの音に返したくなった以上みたいな。 そうそうだからね、そのね、一即一みたいな感じであるとか、一枚絵みたいな浮世絵みたいな世界観みたいなのがその拝啓の中にあって、だからどうしたっていう話でもない。 僕がすごい好きな、今現代拝啓師の人の中で、星野隆さんっていう高浜巨神のお孫さん、ひまごさんで一緒に宝井企画のお墓参りに行ったこともあるんですけども、彼の句の中にね 赤とんぼ、夕暮れはまだ先のことっていう配布があって、僕それすごい好きなんですよ。赤とんぼって言うと、まあやっぱり赤とんぼだから夕暮れを先に思い浮かべちゃうんですね、我々はね。 あ、なんか秋の夕日綺麗だな、みたいな。ここに赤とんぼがいいみたいな。でもそれを赤とんぼまで来て、そこまで想像させておいて、夕暮れはまだ先のこと。あ、まだ日中なんじゃ。 だいぶ明るくなって、でもそれが未来のことを言っているようでもあって、切ない世界の美しさもあって、日本情緒もあって、これすごいな、化け物みたいな句だなと思って、めっちゃびっくりしたことがあってね。 でもそれが何なのって言われたら、何なのじゃなくて、そういうことじゃん。そう、びっくりしましたっていうか。時間っていうものがこんなに行ったり来たりができるんだっていうね。 っていうのが、いちいち、一枚絵として提示できるサイズ感っていうのが俳句の面白いところで、助形詞だからね。一枚絵として提示できてしまうんですよ。 だからそこが短歌とも違うところ。短歌はもうちょっと複雑というか、もっとメタが仕込めるというか、絵にならない。 そうそうそうそう。そこら辺、あと展開ができるんだよね。必至があることによって。からのみたいなのがあるっていうね。そこが面白いよね。 僕は多分短歌の方がね、距離が僕の身体との距離がすごくちょうど良かったっていう。 特に現代短歌。割といろいろ、本村ひろしとかのエッセイから読んで、短歌ってあれは何をやってるのかっていうのを、割とすごく実は理論的に言ってて。 すごくそれが僕の中で、大事な文化だなと思っていて。 いやすごいですよ。短歌にしても俳句にしても、とんでもないですよ。 しかもよく言われるのは、日本の詩歌って、他のヨーロッパの詩歌に比べるとめっちゃ短いみたいな。もっと向こうは長いしな。 世界最短の詩文芸ですから。 っていう話ですよね。 ただ海外の人が俳句って言ってるのは大志号じゃないので、産業詩のことを俳句っていう風に言ってるよね。アルファベットで俳句は。 行数で取るしかないみたいな。 でももともと俳句っていうのも若から生じてる文化だから、連句っていうのはそもそも5-7-5、7-7、5-7-5、7-7、順番に巻いてって、季節を一順二順にして、で完成みたいなものなんですね。 それのフォックだけ取ったのが現代俳句なので。もともとは四五町で連なっていく、ある程度長い、何ならタンカーよりもだいぶ長いルートを繋がっていくから。 その中で世界全部を表すというか、連中と一緒に順番につかず離れずの、遠すぎず近すぎずっていう句を読んでいって、季節も一周回って、ミクロコスモスを形成するみたいな、そういう世界観。 呪術じゃないですか。 呪術なんですよ。それを座集と一緒にみんなでやるっていう呪術感。儀式だよね。 やっぱり言葉の起源にそこなんだろうなっていうのがあって。考えとか主張を伝えるってすごく近代的なものであって。 言葉ってずっと実はノリトをやるとか、あるいは王の言葉とか神の言葉を聞くとか届けるみたいな。 その中におそらく日本的な、大和的な心みたいなものも多分その中に蠢いてるというか。 間違いない。間違いない。 だからね、フロイトとかを先取りした能が出てきたとか。 そうなんだよ。 それはそうでしょ。 方としてね、日本の文学ってメタをめちゃめちゃ小さい型にまとめているんですよ。美しく。 普通だったら長い物語の中からそこにメタな物語が最後にあったりだとかっていう話なんだけれども、 たった13音とかで、そういう世界の中にメタがあるっていうのがすごい良いところなんだ。 13じゃない、17音か。 なんかね、たぶん現代の僕らはなんでこんな歌を忘れてしまったんだろうっていうのが思いがあって。 あるいは歌的なもの、単歌的なものってすごく幼いとか、だって論理的じゃないとかさ、とてもウェットな心を読んでるみたいな。 でもたぶん我々はそういう国民というか、そういう民族性があるのでみたいな。 歌的なものってすごく遊びの要素もあるし。 そうだね、でもなんかね、ニコ動だとかが出てきた頃から歌い手さんとかボカロだとかが出てきて、 作詞する人、作曲、曲作る人、演奏する人、歌う人、絵つける人、動画にする人とかっていうのがだんだんだんだん分かれてきたけれども、 あの文化の中で生じてきてる歌詞の文化ってすごく和の感じっていうのは踏襲してる気がするんだよね。 すごい単歌的なものも多いと思うし、俳句的なキレとかもあると思うし、どちらかというと文学文芸によっているものが多いような気がする。 で、一方で歌謡曲だとか、いわゆるメジャーシーンから出てくる音楽っていうのはあんまりベタなところがないというか、 やっぱり分かりやすさに注力しているような歌詞が多いよね。 なんならキレがないのよ。だから作文的な歌詞が多いなっていう。 一方で、そういうこと気にしないでいいネット上の作品を作る人たちはキレキレの、わけの分かんないものが多い。 だって人間が歌うわけでもないしみたいなのがあるから、そこから文字数をぶち込んだりとか、音の羅列だけで意味が分からない。 面白いなぁと思って見てるけどね。歌詞的には俺はあっちの方が面白いものが多いと思って見てる。 なんで僕は単歌っていうのがすごく僕の身体に近かったかというと、僕日本の歌謡曲で、この作詞家は天才だなと思うのは松本隆。 ハッピーエンド。 赤いスリトピーとかも全部そうか。 ルビーの指輪と、揉めんのハンカチ。 僕はあの姿勢がすごくいいと思ってて。 僕も松本隆にはすごい憧れていて、彼は詩を縦書きだったんですよ。ずっと。最初っから。 縦書きの詩、つまり御伝に寺っていう詩に音楽をつける。曲をつけるっていう発想だったんですよね。 御伝に司じゃなくて。 司じゃなくて。そこが松本隆以後と以前と大きく違うよねっていうところがあるかな。 あとはね、曲作りっていうことを言うと、ハッピーエンドの曲っていうのは松本隆の詩詮だったんですよ。多くが。 だから詩が先にあって、それにメロディーをつける。でも現代音楽の大半は先にメロがあるんですよ。 メロディーに合わせて、売れそうなメロディー、いいメロディーに合わせて、言葉を乗せていくっていう、当てていくっていう作り方をするから。 そこもだから全然違う。 だから曲としてのキャッチーなメロディーだとかね、ドラマチックなメロディーみたいなのは、初期の松本隆の作詞の曲にはほとんどないんですよ。 それこそ長歌みたいに近い、老曲みたいに近いよ。 だってモメムとハンカチーフのあれも長いじゃないですか、ターンが。 でも微妙にお二人のコミュニケーションが歪になってきちんでいくっていうのを、あれを描けるってすごいな。 でもあんなのだからやっぱりハンカ的な世界観でね、すごくね。 情景だけで、まさにルビーの指あって情景じゃないですか、まさに。それだけで伝わるっていうのが、あのマジックがすごいなって思った時に。 だから結局、エモいっていう言葉が出てきた時に、それは単価的なエモさというかね、単価で揺りを動かされるような、かきむしられるような、そういう心のキビみたいなものが多分エモいだと思うんでね。 僕はね、最近だからよく単価的なセリフだねって、単価的って僕最近よく言い方をしてて。 まさにエモいって僕が今まで言ったのは、そういうような。このフレーズだけで、この言葉だけですごく奥行きがわかる、ある意味二人の関係性が見えてくるみたいな。 なのにこんな単的な短いセリフなのにっていう。今日もだから授業で、早々のフリーレイの全然おまけ的な、本編じゃないストーリーのところに出てきたセリフがあって。 こいつの焼くパンはあまりうまくなかった。もう食えないんだなってセリフがあるんですよ。 で、これを言ったら、生徒たちが、あ、これ死んでる?とか言って、やっぱなんか見えるよね、このセリフが。 だって普通に考えたら、ロジックで言ったら変じゃないですか。こいつの作るパンはあまりうまくなかった。もう食えないんだな。 食えないことを残念に思うの?おいしくないパンなのに?っていう。このセリフの中にすごい二人の関係性とか、あるいはその相手がパンを作ってたのが死んでるか、あるいはもうパンを作れない状況になってるかが畳み込まれてるっていう。 これが今日生徒に言ったときに、こいつの作るパンは最高にうまかった。じゃあダメなんだよみたいな。ダメって言わなかったけど、どう違う?ってときに、 やっぱり1個目の、こいつの作るパンはあまりうまくなかった。もう食えないんだな。は、人。で、こいつの作るパンは最高にうまかった。は、パン。に意識が向いてるみたいな。 今ので思い出したのは、完全にパンからの横滑り伝送なんだけど、僕の教室に、昔、ジョン・ケイジさんのお弟子さんの方がいらっしゃったんですよ。 で、話をしてるときに、ジョン・ケイジの話を僕が授業でしたときに、私、実はジョン・ケイジさんのところにいたことがあるんです、みたいなことを、もうおばあちゃんだけどね、おっしゃってて。 で、なんかちょっとエピソードを教えてくれますか。なんかちょっと話してくださいって言ったら、いやー、ケイジさんのね、出してくれるパンがね、固いのよ、いつも。って言ってて。 いいなーって思ったんだ、俺。美味しいんだよって言うのかなと思ったら、いいな、なんで固いんだろう、どんだけ固いんだろう、その固いパンっていう一つの存在が、その瞬間、すごい俺の中で多分、固いパンを食べるたびに、なんとなくジョン・ケイジが出てくるようになるんだよね、そこからね。 これはすごいの、なんかプログラミングされたな、みたいな。 そう、なんかね、歌ってそういう力強さ、それを読むというか、だってその人も、他にもいろんなエピソードあるわけじゃないですか、きっと。 彼が出すパンが固くてっていう。 そうそうそう、そうなんです。 つまりそういう条件を覚えてたんですよね、真っ先にね。だから小村博史が本の中で言ってるのは、僕らは多分そういう、外れ値、つまり普通じゃないことが起こった、失敗なんとか変な人がいたってことの方が、なぜか家に帰ってから人に話をすると。 普通通りのことが起こっても、記憶に残らないと。単価が出る幕はそういうとこにあるんだ、みたいなことを言うわけですよね。 その通りだと思うね。 変な奴がいてさ、みたいな。困ったことが起こってさっていう時に、僕らは人に伝えたくなる。 思い出せる。 っていうのは、その中にマガマガしいものじゃなくて、しょうもない出来事だったんだけど、何か今となっては愛おしい、どこか愛おしい、何かを感じるみたいなとこに歌が出てくる余地があるみたいなことをやっぱり家人の人とかみんな言ってて。 これすごい反転術式というか、普通は良いものを伝える、良いことがあったから広まると思ってるんだけど、そうじゃなくて、単価の世界ってさっきのズボラだし、こんなに傘もたくさんあるしっていうのも、 ダメなところというものがむしろ美しいものに変換されるっていうか、おそらく我々の僕の構造がきっとそうなってるんだろうなと思うんですよね。 だから僕らは、特に日本人は歌を読まざるを得なかったとか、読まないとやってられなかったというか。 今の反転的な感覚がすごく面白いよね。だって実際にビニール袋がたくさんあって美しいと思うことは稀なわけですよ。 ほぼありえない。 ちょっと低いというか、本当にこいつ傘めっちゃあるじゃん。 そうだよね。それこそコンテンポラリーアートとか作る以外に美しいと思わせるのは難しいと思わせておいて、その一句はエモいわけじゃん。 ズボラだし、傘もたくさんある。 それはもうまさに魔術なんですよ。呪術だよね。 だからすごく祝福が可能になる装置だなと思ってて。 そういう目を持って生きていったら、人間の見え方、世界の見え方が変わるんじゃないかなと思って。 だからなんとなく今の祝福っていう言葉もそうなんだと思うんだけど、割と60代70代80代になってから単価とか徘徊に来る方ってすごく多いんだけど、そっちに向かってるっていうのもあるんじゃないのかなと思うんだよね。 そういうところを感じたから自分もそれにまくみしようというか、そういう言葉を残そうと思ったのかもしれないし。 なんかね、辛酸を舐めてきた人生だからこそ読める歌というか美しくなる歌ってあると思うんですよね。 中学生に同じ題材の話をすると、高校生の方が奥行きを感じやすかったっぽい。 やっぱりある言葉から連想される出来事の深さが、中学生チームよりも高校生チームの方がやっぱり想像力も幅が、想像のもとになる出来事。 だから自分は経験してないけど、この歌を歌うとこういうこと言ってるんじゃないかなのやっぱり幅がかなり違ってたかなと思ったね。 だから生きてきた甲斐があるじゃんって気がするんですよね。歌を見ると読むと。 この歌に痺れることができるような人生だったって美しいと思うんですよみたいな。 なんか生きてきた甲斐があるっていう気がしていて。 それはロンリーからは出てこない、狭い意味のロンリーからは出てこない領域だなと思ってて。 プラトンなんかはね、魂を揺さぶる力のことを死っていうふうに読んだわけだよね。 プラトンなんかだからすごい危険視してたわけですよ。 人を危なすというか。 だから要はレトリックっていうものと死の関係性とか、あるいはユリーカじゃないけど、死と被評というものの関連性だとかっていうものが 常に同じじゃないのに近くに常にあったっていうのは、死っていうのが存外パワフルな存在だからっていうのがあるわけだよね。 まさに前もここで話したけど、王の権力とジョーカーの権力みたいな、ジョーカーの力みたいな、これ裏表の。 つまりロジックが表の王様の権力。 越境するの?しないの?っていうところもそうだよね。 シャニーサイドのわかりやすい権力が王の権力である同時に、裏にジョーカーと呼ばれている全てをひっくり返すことのできる同家の力があると同じように、表向きロジックというものが僕らの社会を動かしている。 わかりやすい日の当たるものに、裏の部分に実はタンカーだとかシーカーのやってる技術があるみたいな。 そうなんだよ。今、新しい本というか、12月に本一冊出すんですよ。 前に出した本をもう一回出すので、すごい書き足してるんだけど、その中でレイチェル・カーソンについて書いてるんだけど、 レイチェル・カーソンがなんで『沈黙の春』、通称『沈春』があんなにヒットしたのかバツしたのかっていうところ。 だってさ、農薬実は危なくね?なんていうわかりやすい話。さすがにカーソンの前にいろんな科学者が言ってんだよ。 言ってんのに、それまで別に世界がスルーしてきたのに、カーソンの『沈黙の春』だけは残ったんだよ。 あれは何なの?っていうところで、カーソンって詩人なんだよね。 やっぱり、姿勢、詩情がブーストされてるっていうか。 いや、そうなんだよ。 そこしかない。だって読んで気持ちいいからとか。読んだ時に、科学的なものはアップデートされてるんだろうけども、だってこの眼差しって素敵なんだもんみたいな。 そう。だから、科学のロジックを詩で表現したっていう、その立て付けというか、その編集というか、それがあそこまで人に刺さったんだろうな。 もちろん、その当時の女性を考えて、カーソンが女性だったっていうのもあると思うんだけども、 女性であり、かつ詩的な文章であったっていうのが、ただのエビデンスがある科学論文っていうものよりも、何百倍もパワーを持ったっていうのは非常に興味深い現象なんだよね。 だから、コンテンツは捨たれる可能性があるんだけど、その文体とか音は、後世にも良いと評価される可能性が高いと思うんですよね。 だって結局それが各国の基本的な文法を作るわけじゃない。きっとした物語がどういう文法だったのか。日本だったら源氏だったわけですよ。 あれはね、近代日本であれば漱石だったわけですよ。 そうそうそうそう。英語だったらアーサー王の物語でしょ。みんなが物語として親しんだ文法、語り口、文体。 そういったものがその国の文体を作っていくというか、それって国ごとのマインドにも確実に影響してるからね。 なんかね、遊びの領域、つまり真面目な領域じゃなくて不真面目というか、の領域っていうものが、不真面目っていうのが本当に何ですかね。 堪えだっていう意味ではなくて、要は世の中でまことしやかに良いとされている価値のある領域の外にあるもの。 僕が象御なんて言ったのもそこなんですよ。売るとか売るという世の中で良いとされているまことしやかに信じられているものの外に蠢く何かがあるよっていう。 なんで象御なんですかっていうと、人と人の繋がりで不可思議な、呪術的な繋がりだからですっていう。 象御なんて呪術の最多のものじゃないですか。僕はずっとロボスを使って呪術を言ってるっていうたてつけの中で呪術的に語るっていう。 すごく論理的に言ってると同時に、途中文学的表現で押し切るみたいなこと僕は平気でやるので。自分でも読みながら、ここめっちゃドライブしてるけど論理飛んでるなと思う。 いやでもそこは文学的表現じゃないと、そのままの解像度で伝えられないみたいなところはあるよね。 ロボスじゃなくて、ぴょん、本当に楽しくなってくる。僕が乗ってくると論理の一歩一歩の距離が開いてくるんですよね。まさにぴょんぴょんぴょんって飛べるっていう。 でも飛んでるからこそ、しかもその時って文章の音がいいんですよ。だから多分読みたくひゅっていけるんだけど。 読んでみると、すっげえ論理的にぶっ飛んだこと言ってるななんだけど、読めちゃう。あるいは自分としても納得できるみたいな。 その意味で呪術、だから最近の論文って呪術みんな使わないじゃん。 使わないね。だって怒られんだもん。 すごい禁欲的だよね。 禁欲じゃなくて、禁欲じゃないと思う。 呪術されないだけ?やっぱりやっちゃうと。 あと欲がある人がそもそも相当少ないと思う。 だから物を書くときに呪術を使うべきだっていう意識がそもそもないってことなんだよね。 だってアカデミックな世界にオカルトを持ち込むなんて普通に怒られるからね。 だからマジック、オカルトって言葉がちょっとインフレを起こしすぎて、何でインフレなのかな? すごいところにあるけど、僕らのすぐそばにあるじゃんって思うんですよね。そのマジックな、マジカルなものが。 そもそも言語を出せっていうところもあるわけじゃん。 音で人が動くってどういうことだよ?って言うね。 逃げろ!って叫んだら人から逃げ出すんだよ。マジックじゃん、こんなのっていう。 そうなんだよね。 言葉ってそういうことだよ。逃げろって言ったらみんな逃げるじゃん、ちょっとっていう。 生成映画出始めの頃さ、プロンプトのことを呪文って呼んでたんだよね。 正しいかもね。 すごいついに呪文が理解されるフェーズが来たなと思った。 だから良い召喚魔法と悪い召喚魔法で挙動が変わるみたいなね。 プロンプトは魔法だね、確かに。 だからやっぱり今も、生成映画を使いこなしている人っていうのは、潜在的に呪術みたいなものを理解している人がすごい上手く使いこなしていると思うんだよ。 それってこれから先、当然スタンダードになってくるであろうエージェント思考みたいなものを考えても、やっぱりそれは呪術性を帯びざるを得ないという直感があるかどうかっていうところがおそらく鍵になるんだよね。 だから今こそ、わりと呪術的なこととか魔術的なことをしっかり基礎教養として捉え直すっていうのが大事だろうなと思う。 でもヤグジさんも思っただって今の言い方はしないじゃん。これからの教育には呪術が効き込まないって言うからさ、後々伝わらなくちゃとヤグジさんもおかしくなったらたまるじゃん。 それはだからさ、俺も戦略的に30年やってるから。 俺も同じこと思ってるの。もっと呪術を教育の、ロゴスと呪術を、ロジックとマジックをと思ってるんだけど、 それが伝わらないから、単価って実はすごくて、これさ、こっそり地下通路で向こう側にあると言うんですが、 戦略的に単価って、日本の古今和歌集とかあるじゃん、万葉集ってあるじゃん。つまりオーセンティックな話をしてると見せかけて、超マジカルな話をするっていう時に。 博士通路としてみんな、それはすごいバックドアだなと思ってて。 文学と心理学と経済学っていうのは、そのバックドアを編集するのに便利な学問なんですよ。そこら辺を駆使しながら。 だから僕のソウルの本も、あれは経済の本だって見せつけて、実はマジックの話しかしないっていうね。 それだって俺の正解のない教室の中でマジックの本だよ。 あれは中身じゃなくて、本としての作りがマジックじゃん。 あれだってマジシャン・妖精講座だもん、あれは。 変な本作ったなと思ってて。 そう、あれを開いた瞬間に変な本みたいな何かが巻き起こってる、この本はっていう。 そうそう、巻き起こすための出来がしてるからね。 なんかさ、シンクタンクとかが出すレポートとかってつまんないでしょ、とにかく。ロゴスだから。 そうだね。 飛躍がないし。 だから結局そのロゴスの部分はとりあえずAIができるぜって話。 だからマジックしか残ってなくない?僕らのやつと。 でも下手したら初級魔術みたいなの僕らはもう使えんだよ、AIが。それがもう見えてきちゃってるから。 さらにその上を行くメタな魔術を我々は使っていかなきゃいけないよねっていうフェーズなんだよね。 しかももう緊急にだよ。 すごいスピードだもんね。僕も最近とうとうジェミニを使いまして。 ジェミニを。 めっちゃ楽しい。 面白い? めっちゃ図書館のレファレンスみたいな使い方してる。 いいですね。 可愛波用の中空構造について本人以外の著作で関連してること言ってる本どれって言ってちゃんとあげてくれるから。 まさに編集的なこと考えたいときにはレファレンスとして言ってくれるから。 去年の今頃、これAIはできないんだよって言ってたやつが今年になってできるようになってるわけじゃん。 だってもう指示語が理解できるんだよ。それを理解してて。 指示語理解できるって相当文脈どうやって… 日本語の指示語をあれだけ使いこなせるっていう。 すごいすごいすごい。 初級魔法、初級の呪術使えてるなこいつらっていう。 いやそうなんだよ。 それが理解できるって相当な魔術よこれって。 女子が使いこなせた時点で驚きだったわけだけども、指示語があそこまで使えるって。 日本語であそこまでまともな音ができて。 やばいよね。だから今年の初めに、実はペロッと言っちゃうと、次の次の本が、俺指示語の本書いてるんですよ。 去年の暮れから今年の頭にかけて、これからの時代は指示語なんだよっていうので決まった話。 ところがAIがどんどんどんどん指示語を使いこなせるようになって、変わったかというとまだ変わってないのよ。 AIがこんだけ指示語を使いこなせるんだから、だから俺たちが使えないとマジで話にならなくなるぞっていう話なの。 彼らはどんどんどんどん指示語を使うことによって要約の技術が上がっていくし、規約させやすくなるというかね。 コスパがいい喋り方ができるようにどんどんなってるんですよ。 そこに我々が合わせていくためにはこっちも指示語を使えてないと意味がないよねっていうところで、全然まだ成り立ってる企画ではあるんだけども。 指示語って普通に旧来の考え方で言うとかなり身体性に担保された学習。 例えばビトゲンシュタインの話じゃないですか。それっていうのはどれっていう。 手に取れるものとか、あるいは取って、それ取ってってことは、まずそれって言ってるから我々の視野の中に入っているものであるっていうことが含意され、 取ってってことは手に取ることができる、つまり人力で運ぶことができるものであるが含意されてるわけじゃないですか。 つまり今言った通りに、お互いの視野の中に収まっているものを、かつ人力で運べそうなものがそれなわけじゃないですか。 あるいは目線で、あるいは指先で。つまり身体由来のもののはずだったんですよ、本来、指示語の理解って最初の。一番最初の理解って。 だから動きを伴わないと無理だったんですね。月を指さす指っていうのを、月を指さした指を見て、人は月の方を指さしてるんだなと思うけれども、 AIは指を指している指の方を認知してしまうっていう問題に対して、超えられない壁があったわけですよね。 指を見ちゃうってことですね。指の先じゃなくて指を見ちゃう。 指さす指の方を認知するんですよね。 だけど、ゼミにできてるんだけどって。 そうそう、できてるんだよ。 だから遊びでだいぶ荒い指示を出しても、プロンプトをね、分かってるこいつみたいな。 いや、そうそう。 なんとなく俺たぶん今の、現時点での2025年9月段階のAIは、たぶんこれぐらいふわっとしたプロンプトでもこいつたぶんいけるなと思ってやってみたら、やっぱ本当にいけるわと思って。 だから、4.00と5.00のIQの違いみたいな話があって、結構AI周りでIQの話っていうのはどこでもしてるんだけども、 去年の今頃スタンダードだった4.00は、IQがだいたい90から100って言われてた。 で、要は人間の平均値とかだいたい。 ちょうどパラメーターの数とシナプスの数がだいたい追いついたんじゃないかみたいなこと言われてた時期で、そこでIQが追いついたっていうのは別に理にかなった話だったんだよね。 典型な予測できますよね、それってね。 そうそう。 で、今年5.00が出て、5.00のIQどれぐらい?ってなった時に140っていう話なわけですよ。 面差ですよ140って。 そうだね。人口の1%から2%みたいな。 で、じゃあこの速さでIQ的なものが上がってくるんだとしたら、来年160は軽いでしょって。 IUサインが160だったっていう話があるわけで、すぐにそんなものを超えていく。 じゃあそれをチームの中に入れるとか使いこなせるみたいな話になってくると、 じゃあやっぱり我々ができることっていうのはなんだろうなっていうのは、 それこそ死であるとか魔術みたいなものだとかっていうのにまだ生きるの望みがあるよね。 なぜなら構造が違うからなんだけども。 だしあとアウトプット、誰かに見せるためのアウトプットだったら、もう人間やることないと思うんですよね。つまり効率化能率化。 だけど問題は自分の人生を自分で納得するみたいな作業って、AIはまたアシスタントになるかもしれないけど、 自分の心底を納得するとか、あるいはAI使って提出して、それって使った人楽しいんですかね。 だから今さ、高校生の8割9割がAI何使ってますか?宿題をやらされてるみたいな。 だって俺もこの前予備校の数学の問題ちょっとスクショして解いて言ったら、大学受験の高校生向けに回答を作って言ったら、 つらないながらも、「あ、解けてるなこれ。」と思って、「あ、大したもんだ。」みたいな問題文を写真で書いただけで、 プロンプトも大学受験の生徒向けの回答を作って言ったらさ、数学的にちょっとヘンテコな回答だったけども、 一応数学的にはまるかみたいな。ちょっと不自然だけどと思って。 だから、対外的な、人の目による他者の評価軸に依存するもの、つまりこの提出物によって何点が付く、A評価が付くみたいなことで言うと、 それ意味ない。人間がやることが。そのA評価を俺が取りたいんだ。自分の作ったものでA評価を取りたいっていうモチベーションに根差した活動以外、 多分意味がなくなる。 まあそうだね。だから意味付けとか自己言及みたいなものは、やっぱり未だ残ってるし、それは残り続けるんじゃないかな。 だって、だいたいされても、例えば、「俺、お腹超空いた。AI代わりにご飯食べておいて。」ってならないわけじゃないですか。 つまり、自分の中にあるクリエイティビティみたいな欲求みたいなものとか、自分が作ったっていうものに担保された喜びみたいなものは、だってだいたいできないから定義上。 すごいトイレ行きたくなったから代わりに行ってきてができないように。つまりかなり生理的なレベルに裏打ちされた欲望。 まだ身体レベルで。フィジカルなものが関わってないとできちゃう。 エージェントが私であるっていうことに根を下ろしてる何か? そうそうそう。そうなんだよね。 それはさ、スライド作るとかパワポ作るみたいなもので、エージェントが私である必要ないわけじゃん。外から見れば。 振り込まれるギャラだけ、私の自分の構造に入ればいいだけであって。でもさ、それって楽しいのかな。 あとは楽しくないと思うし、結局自分で作った方がまだいいことの方が多い。 技術がなければ作らせた方が見栄えいいものができると思うんだけども、やっぱりある程度の基礎とか技術を持ってる人は自分で作ったものの方がいいし、 ここまでAIが出てきてAIっぽいものっていうのが普通になってくると、逆に上手いとか綺麗っていうものの価値は下がると思うんだよ。これから。 そうだ。インフレを起こすよね。だってみんな大体綺麗だし、みんな上手いし。 でもそれよりも、基礎ができていて個性的みたいな。ただ楽しいものとかちょっと不自然なものとか不器用なものの方がまさに単価的な。 ただ、基礎が必要だっていうところがポイントなんだよ。めっちゃかではなく。 僕もね、自分の書いた6000字の連載の原稿を、これをスライドにまとめるならどんな感じになるかスライド風にまとめてって言ったら、 いや、確かに書くスライドにはこう書いてくれってなって、上手いなと思ったんだけど、綺麗すぎるよこれって思って。 俺の文章にあったちょっとうよ曲折する、うねうねする、たどたどしいのが消えて、綺麗すぎるんだよお前みたいな。 結局だからAIに書かせた文章ってやっぱり違うんだよね、全然。 綺麗すぎだ。やだ。 そうそう。確かに綺麗ですね。宿題やらせるには持ってこい。 お上手ですねって思った。本当に優等生的なものをまとめるのはいいんだけど、そんな綺麗に整えられてるの?みたいな。 いや、そうなんで。 すごくない?俺この1週間。 いやいや、ジェミニはさ。ジェミニすぐ、インストールなくてすぐできるから。 パチパチやってたら、写真よりちょっとGPTの方がもっと上? いや、もう得意不得意が出てきてるから。個性があるからさ。何として使うのかだよね。 なるほどね。専門用語をいちいち噛み砕かなくて説明して書いてさ、それからさっきのかわいは用の中空構造について説明して、ビヤーってきて。 細かい専門用語だとかジェミニ今すごく強くなってると思う。 全体のデータ量であるとか一般論、抽象化の能力はやっぱGPTが強い。 翻訳はどうだろう? どれもどれ? 翻訳はやっぱね、いいプロンプトが組み込まれているやつであればどれもいい。 ただね、日本語能力とか言語能力はやっぱりクロードがまだちょっと優位。 あとは今の話、今日こうとか今のトレンドがこうみたいなやっぱグロックが強い。 ジェミニはバランスよくまあまあなんでもできるみたいな。 そうだね。 なんかね、つい何日か前にふと、Googleの画面開いたときにジェミニってピカピカしたからかな。 これみんなジェミニって言ってるからやってみようっていじってみたら、めっちゃ楽しいんだけどと思って。 こいつとなんか素敵な話できるみたいな。相談をして、これこういうことで合ってる?とかさ。 今日もね、小説と文学って何が違う?って言って、どう答えるかな?と思って。 でもさ、やっぱりそれでこいつが言ってることは理にかなってるなとか、メイクセンスだなっていうのをこっちが判断できないとやっぱダメだね。 俺はお前変なこと言ってない?とかさ。お前いいこと言うじゃん。ちゃんと俺の基準の判断があるんですよね。 そうすると、お前いいこと言うじゃんっていう。ほんとなんかね、マメな知識のある整理屋さんって感じ。 そうそう、だから本当にね、アシスタントとか秘書みたいな感じなんですよ。 僕はマメじゃないし、知識も偏ってるから、整理うまくできないから、僕の書いた6センチの原稿をスライドっぽくまとめて、きれいになりますねみたいな。 俺はだから、僕のできないところをめっちゃやってくれるなと思って。 俺の使い方はね、今ね、ヤハギGPTを作ってるわけですよ。 俺が書いた文章だとかも、ガン食わせて、プロンプトンも、俺が設計した俺のGPTがいるんだけども、 そいつに依頼、これについてコメントくださいだとか、これについて文章書いてくださいみたいなのがあったら、そのまんまぶん投げて、そのまんま出させて、そいつが書いてないことだけを書き直す。 そうなんだよ。そうじゃないんだよがわかるから、そうじゃないんだよってどこを直すって言うでしょ。 そうそう。ああ、なるほど。AIはこう言うよね。今までの俺のを読んでても、こういう風に思うよね。 違うんだなっていうところの。 それはもう古いんだなって。 それは一見そう見えるんだが、違うんだよっていうね。 分かる分かる。だから、この先どうなるかは分からないけど、今のAIの使い方はそのレベルの何か前提で持っているものがないとうまく使えないんじゃないかなって。 今はそうだね。少なくとも今年はそうだね。 でも2025年じゃん。2030年なんてもう予想つかないよ。 30年はマジで予想つかない。 半年、1年くらいしか予想つかないよ、多分AIの世界って。 まだ1年、2年は自己言及能力は無理だと思う。 だけど分かんないよね。だって指示語こんだけ理解してるんだもん。日本語のテキストで。 ハルシネーションみたいなのも、どうしても現状のアルゴリズムだとハルシネーション起きるんですよ。 嘘ついたりだとか。 この前その評価関数変えたら、分かりませんって言うようになったみたいな。 そうそうそうそう。 チャットGPTだよね。 そうそう、それチャットGPTだね。 分かんないっていうことに対してすごいネガティブな評価をされてたのが、点数化されてたのは、 間違ったことを言った方がマイナス2点で、分からないは0点で、みたいな評価の設定にしたらだいぶ素直になったみたいな。 そうそうそうそう。 そこはほとんどのAIが、間違ってるかもしれない、間違ってる可能性が高いがワンチャンあるっていうことを言った方が、 分からないよりも点数が高いという評価基準を持っていたから、絶対に推論でものを言っちゃうんだ。 ただね、これには結構今、製作者サイド、オープンAIだとかは、 ハルシネーションをなくすのは技術的にできるけどどうだろう、みたいなことを言ってる技術者とかもいるらしくて。 要は、断言した方が人は使ってくれる。 確かに。 頼ってくれるみたいな。 そうなんだ。 あとは、分からないことに対して分からないっていう電力がめっちゃかかるみたいな。 まあね。でも人間の心もそうじゃん。 いやいや、そうだよね。 すっごいハルシネーションを持つのは実は、 そうなんですよ。 人間もそうじゃん。分かりませんって言えないから、実はこうです、みたいな感じでだんだん知り滅裂。 偏差値教育みたいなのをトレースしてるよね。 そうそう。優等生になろうとすると変ってこいなっていくっていう。 それよりも、先生、俺分かんないですって言った方が、実は後々伸びるみたいな。 もやもやする力みたいなのがまだそこで出てきたわけで。 そんなわけで、またちょっと喋りすぎましたね。 あららら。 あらららっていうのもやらなかった。 ちょっと詩の話からなぜかAIの話になりましたけども、ただそこは関連してることですよ、完全にね。 ある意味毎回、ずっと俺たちはロジックも大事だけど、マジックなんだよってずっと言ってる気がしますね。 そうね。ここ数ヶ月はずっとそうだよね。 多分引き続き、何かのテーマで話すにしてもそんなことになっていくのでしょう。 ということで、今日はここで一旦締めたいと思います。 お相手は萩国子と、近内ユウタでした。 ではみなさんおやすみなさい。 おやすみなさい。 もっと見る #哲学 #教養 #リベラルアーツ #俳句 #俳諧 #詩歌 #近内悠太 #矢萩邦彦 リベラルアーツ探究実践Radio矢萩邦彦|ArsCombinator51:011.【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』詩情編コメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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