TOPトーク専門家リベラルアーツ探究実践Radio【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』アウラとメタファー編38:57 2024年10月25日 184再生 問題を報告する 再生する シェアする 哲学者で知窓学舎講師、近内悠太氏と教養と哲学についてアドリブで語るラジオ企画。今回はメタファーとアウラについての考察。教室での生放送アーカイブ。知窓学舎生徒の飛び入りも!AI目次アウラとメタファー:授業から生まれた考察神話とメタファー:異なる解釈の可能性夢とメタファー:ロジックを超えた表現メタファーと言語:コミュニケーションの探求教養と教育:統合型学習の可能性AI文字起こし(β版) # 【対談】近内悠太✖️矢萩邦彦 教養と哲学を考えるラジオ アウラとメタファー編 本日は、東予と哲学を考えるラジオということで、 おなじみこの方に来ていただいています、 近内裕太さんです。 よろしくお願いします。 そして今日は、 地層学者から授業が終わった、 今、ちょっと前に終わったばかりなので、 教室から放送なんですけれども、 そのまま残って、 スタジオこと教室にいる生徒の皆さんもいらっしゃいます。 こんばんは。 はい、こんばんは。 大きめに拍手しております。 そういう臨場感の中でね、 いきたいと思いますけれども、 今日は、 何でしたっけ、テーマが。 僕がこの宮脇さんに、 メタファーについて喋りたくてって話をしたら、 宮脇さんが、 本当そうで、みたいな感じで、 僕がもうちょっと言いかけたら、 分かった、あとは放送で喋ろうってなって、 止められたって、 以上が全打ち合わせの内容です。 突然メタファーについて話そうと言われ、 じゃあ来週の火曜日話そうか、 それ以上は話さないで、 当日話しましょう、終了ってね。 分かった、これ以上は言わない。 宮脇さんが、なぜ中学生が統合型の、 統合って言葉がついてるかっていう話まで言ってくれて、 いやそうなんですって、 俺が言いかけたら分かった、もうここまでだって言われて。 結局ね、即興性の重要さっていうのがあるわけじゃないですか。 そうね。 もう一回あの時喋ったやつを再現すると、 なんか僕苦手ですね。 そうだよねって思ったことをさ、 ラジオでじゃあもう一回やりましょうって、 そうだよねってなるかって言ったら嘘じゃん。 なってないじゃん。 こないだそうだよねってなったやつじゃん。 その予定調和性っていうものを、 どんどん反らしていくというか、 破壊していかなければ、 面白い授業なんて絶対作れないんですよ。 絶対に授業中も、 言わない話だとかね、 言うつもりじゃなかった話だとかっていうのを、 いかに持ってくのかみたいなところが重要で、 そうすれば同じコンテンツ、 同じネタ使ってても、 やっぱり臨場感が違うというかね。 そうそう。 同じスライドだけど全く別物になるというかね。 授業、生徒が違うと、 状況が違うと。 そうそう。 それを作っていくのが、 ポイエーシス的な、 プラクシス的な何かですよね。 いただきます。 はい、というわけで乾杯。 生徒が目の前にいるけど飲むっていう。 前は飲んでなかったかな。 うん。 というわけで、 今日はアウラみたいな話をしたんですけども、 生徒諸君どうですか? アウラについて何か考えました? じゃあまずは、あなた名前何ですか? じゃあ、 一回出たことあるんで、 そのまま地層学者民Bで。 あ、そうか。あの時Bだったのか。 あの時BだかAだかだか。 じゃあ、アルファベットがついてる、 地層学者民さん、どうですか? アウラについて。 あの、やっぱりこうあるね。 自衛車側の人が というかあるんですけど、 なんかこう、 一回生っていうのを 聞いた時に、 一回生を作り出すっていうのが 確かにすごいことで、 それに対して尊敬の念が 集まったみたいな話は すんなり来たというか。 なるほどね。 じゃあもう一方、何さんですか? お名前は。 何でもいいですよ。 Lにしとく? Lさんですね。 Lさん、どうですか? アウラっていうのは 一回生っていうのを見て、 その、コピーとか 写真とかになったら大量生産 できるっていうのを 聞いた時に、 あんま、 最近人気なんですけど、 ポケモンカードも同じだよなって。 今、バブルが 弾けて値段が一気に落ちたんですけど、 ちょっと前までは バブルが高くて、 1枚のカードの値段が3000万とか 600万とか何枚もあった 時代があったんで、 今回のアウラと重ねると、 たった1枚しかない 超綺麗なやつが 価値があるから高いんだっていうので、 最近のポケモンカードって結構 大量に生産されてる。 いろんな人に買ってもらいたいからっていうので、 大量に生産されてて、 一番レアなやつも 安くなったりしてるっていうのがあったんで、 アウラっていうのは すげえ身近にある っていうのが もう一回再認識できた。 なるほど。ありがとうございます。 なんで今日授業でペニャミンのアウラについて 話したかというと、そこがメタファーなんですよ。 要は、 ペルセウスがメデューサを倒す時に 鏡を使いましたよ。 鏡に映すことによって 怪物を倒すという あの物語のメタファーは 一体何なんだろうかっていうのが 今日の授業のテーマだったよね。 映す力。 映すことがどれだけすごいことだったのか っていうこと。 まずは視覚情報として すごいわけですよね。 目で見たものをそのまま 描写することができるやつがいたら それはすごいことだったし、 それを文章にできるようなやつがいたら そこから先にまた オルフェウスみたいなものが出てくるわけなんだけど 神話の話をした時に どう捉えるのかって メタファーというものを 認知しているかしていないかで 神話の捉え方って全く変わるわけじゃない。 我々はそんなの 前提に立っているけれども、 例えば中学生だとか高校生が 神話の話をした時に これは何らかのメタファーのはずだから 一体何だろうという思考で聞くかというと そんなことはないわけだよね。 もちろんそんなことないで聞いても 意味があるのが神話の凄さなんだけども そこの境界線みたいなのが 今日の話と非常に重なるところがあるなと思って 今からチーさんと何か話すことによって 多分 彼らの理解も 変容するんじゃないかなと 思っているわけですよ そこにすごく人間の AIとは違う 認知機能というか 心の機能というのがあると思っていて 多分それって村上晴明さんの 夢っていうキーワード 夢も何かを映しているはずですよね 自分の見えない欲望とか だからストーリーがぐちゃぐちゃなわけです 夢って 基本的に明石な夢ってほとんど見なくて だから村上晴明の小説って 僕若い頃 意味が分からなかったんですけど あれは夢の話をしているんだ 一つの神話の都市生活者が 見るべき夢 あるいは都市生活者が見てしまっている夢を 描くと ああいう形になるのかもなっていう 途中ですごく 後頭無形になる 神話って基本後頭無形じゃないですか それってあれは夢である あれは何かの世界の写しとしての メタファーを語っているっていう おそらく僕らの精神の構造の中に ああいうものを 集合的無意識みたいな 同じような形で 僕らは幻想を抱いたりという部分を それを映すということによって なぜか僕らがケアされる つまりそういう欲望というのは もって当然であるものだから 別にそういう欲望とか 幻想を持っていること自体が 悪いことではない 人間であるならばそういうものは持ってしまうんだ っていうことを言われるだけで 人間の姿を映してもらえるだけで なぜか僕らはちょっと救われるみたいな 部分に そこで問題は それってちょっと話めんどくさいので ロジカルに喋ってもらっていいですかが できない領域だと思うんですよね 例えば 彼女は太陽で 僕は月であるという表現をしたときに これってつまりどういうこと? というときにつまりどういうことで言えるんだったら わざわざメタファーを使わないと思うんですよね メタファーを通してしかイメージできないもの というものを伝えるときに ここに僕 像寄りたケアみたいな ロジカルに語れないものを語ろうとしたときに メタファーとか神話とか夢みたいなもの じゃないとね 当たれない気がしていて最近 なのでメタファーのところにたどり着いたんですよね なるほどね 夢っていうのはまさに境界線 境界にあるものだと思うんだけれども 要は今の ロジックっていう話をするならば じゃあ 例えば魔術や 呪術のようなものであるとかね 夢のようなものに どこまでロジックが それはロジックでないものとして捉えるのか っていうのがすごい大事な部分 なんだけれども 俺はね 論理を ロジックと介してしまうと これよくわかんなくなるなと思ってるんですよ っていうのは魔術にもロジックがあるから 確実に 呪術にもロジックがあると 不可能世界っていうものと 可能世界っていうものを考えたときに じゃあ不可能世界の夢って見るのか のか つまり夢の中では 俺丸い三角形を見てきたんだよとか 変が4つある三角形を 見れたんだよってことは起こらないですね 起こらない それはだからパーツとして自分たちの経験が 組み合わさって出てくる という風に考えられるのが夢なわけだから やっぱり可能世界の中での可能性の中で 非現実的なことを 言ってるのかもしれないけれども 不可能世界ではないものが大半だと思うんだよね だとしたら それは 論理的な世界観 の中でないと 我々は魔術的にも感じることがない というかそもそも理解ができない というか意味がわからないわけじゃない 口頭向けになっちゃう 呪術的なものとか夢の世界って別に 口頭向けに見えるんだけど 意味を感じるというか 意味のリンクは感じるみたいな だからやっぱり科学的非科学的っていうような 見方っていうのは ちょっとわかりやすい見方なんだよね でも科学も非科学も 最低限論理的でなければ 成り立たないというか わけがわからないわけでね だからロゴスとロジックの間 みたいなものは確実にあるし そこを理解していないと 多分魔術呪術について 語るのはとても難しい だろうなと思うね 論理っていう言葉を狭く取ってしまうと 伝え方が悪いという だからミドゲン主体的に 文法という言い方をするんですよね 三角形という言葉の文法に 丸い三角形ってことは 三角形という言葉の文法に反する という言い方をするんですよね 三角形という概念の使い方として 丸い三角形というものを使って 僕らはコミュニケーションを取れない 相手を理解することもできないし 上手くコミュニケーションその丸い三角形を取って っていうゲームを展開することがそもそもできない 夢の中にも言語ゲームもあるわけですよね 何か言うと相手が何かを言ってきたり 追われるから逃げるみたいなものとか 言語ゲームはあるわけですよね その辺のミドゲン主体は すごく絶妙なところだと思っていて ガチガチのルールの決まった 論理的な数学的な対象 最初の頃はミドゲン主体で論じたんだけど あるところから 中間的な明確な ロジック規則 計算ルールではないんだけども 全くの無秩序化というわけでもないところに 僕らの言葉というものがあるみたいな そこに心とか 心とか僕らの認識みたいなものが そこにあるっていう その中間領域っていうものを確保する 言葉が今ないと思うんですよね そこが 僕の領域で言うならばリベラルアーツ 言語参加というものが そのまんまそこに当てはまるわけですよ 言語参加の中で 論理学と呼ばれるものが まさに科学的な視点で あったりとか因果律みたいなものを 中心に考えられるような もの しゅうじ、レトリケーですよね レトリックと言われているものは 詩である、詩の世界観であるとか 呪術の世界観 私の領域の話をすれば 結合の世界観なんですよね 科学の世界観というのは 分析の世界観だから 論理というのはどちらかというと 分析の視点で レトリック、しゅうじというのは どちらかというと結合の視点 というものがあると その両方を たらしめているのが グラマーなんですよ、文法なんですよ そこは多分伊藤玄師さんの 言っていることで非常に近いのかな と思うんだけれども むしろロジックというよりは文法の方が ロジックみたいな 感覚なんですよね 論理の方をロジックと言うんじゃなくて 論理の方が因果律的な、科学的な視点みたいな感じ 経験的な世界の実験というか 世界が実際どうなっているかというところ 言葉の事実性みたいなことで言うと 文法という言葉の方が 文法は両方とも 文法として考えないと 多分難しいよね だからそういう意味では今言った3つの中で 文法と 論理というものの混同 というのが起こってしまっているよということと なぜ混同が起こったかというと その中で取り立ててレトリックというものが 軽視されているでしょ 理解されていないんで レトリックって 相手を煙に巻いたりオシャレな表現をする 認識が多分僕らの常識的な 弁論術みたいな 相手を煙に巻かせるみたいな そうじゃなくて それこそアリストテレスの時代とか ジョジシみたいなものってセリフが全部 因文、つまり詩の形になっていた時に 古代ギリシャ 民主性が生まれた土壌というのもあると思うんですよ やっぱり意見を 共通の基盤を持たない相手に 何かを語りかけようとか あるいはその人に心震える つまりこっちに関心を持ってもらおうと思ったら 物語的に話して しかも因文、詩的な表現で じゃないと、それじゃないと伝わらない だって論理が違うし 生まれてきた場所が違う、育ってきた環境が違かったら 異国の民とかね、同じポリスの中ならまだしも でもそれでも境遇が違うから 意思疎通が取れない あるいはその共通の 意思決定みたいなものができない時に じゃあ同じ演劇を見て 同じように悲劇を見てって時に 詩っていうものが当時は前提にあったみたいなものをね 詩楽を読んだ時アリストテレスで ちょっと感動して 僕はそこから 自分の本の文体も もしかしてそういうところから出てきたのかな やっぱりチーさんの本だとか っていうのは引用めちゃくちゃするじゃない いろんな領域からね あれっていうのは これとこれって関係あるんですよとか 結合してるんですよきっと 結局やってることは結合、統合、総合 っていうことをやってるわけで だから全体としてポエジーが をまとってるというかね やっぱそれって僕が 書き言葉のトレーニングよりも 話し言葉のトレーニングから人生の最初 入ったからってあると思うんですよ 非常勤で数学をしてたり なんとかこの子たちを50分なりで 寝かさずに興味を持ってもらって 自分の意思で 今日ここに私は座ってたのだと やっぱ授業してると その子たちを50分ここに縛り付けてるなっていう 後ろめたさというか申し訳なささも感じたんですよ 非常勤やってる時って テストがあるからこの子たちって出席しなきゃいけないから 50分ここに座ってるみたいな でもそうじゃなくて楽しいから この授業が面白いから私は50分ここに座ってるのだって 思ってもらいたいなと思って 授業をした時に そこでやっぱ僕この話し方を 身に付けたんですよね ばーって喋って何が言いたいかって言うとね これってこれと同じじゃない 結末的に 聞いてる人にカタルシスが起こる 本当だそういう話だったのかみたいな カタルシスが起こるとか そういうものって僕書き言葉よりも 同じ言葉からトレーニングしてたから ある意味古代ギリシャの 多くの人たちに向かって 何か意思疎通を図るというか 物語を提示するみたいな っていうところってあるし とてもアゴラ的な 空間をこじ開けるみたいなところがあると思うんだよね 物語を語るというのは 神話を語ることによって この神話ってこれと同じよねっていう風に 言わないで 物語としてその人の心に 食い込んでいって その人が経験体験の中で あれってこれと似てねえかっていう風に 気づいていくっていう方法論 実語教の 方法論とすごく似てるよね 江戸で言うとね 山高くしてたっとからずみたいな 漢文を 三歳児とかに とりあえず暗記させると なんのことかさっぱりわかんないけど暗記させる でも大人になってから 山は高いから偉いんじゃなくて 木が生えてるからいいのか これと同じよねみたいな 自分の体験と繋いで 結合が起こったとき 統合が起こったときに初めて あーってなるっていう それぞれのあーの種をまいておくっていうのは 要は体験と 結びつけるための のりしろを 出しておくじゃないか そういった方法なんだよね だから 例えば今の従来型の 学びの中で詰め込み学習みたいな 否定されているような内容も 教える側が 実はこれ全部のりしろ出して いつかあなたたちが大人になったら それぞれの経験の中からこれくっついていくからね っていうことを全部 分かった上で仕掛けていたら それは成り立つんだよ でもそこがないのに それをやっちゃうからダメなんだよね だから詰め込みになっちゃうんだよ 今ここにこれ3位5位をとにかく覚えないといけないのは これを分かった暁には こんな広い世界の理解があるんだよ っていうのを夢見てる人が語るのと 説得力が多分違うんですよね なんで3位5位を勉強しなきゃいけないのときに いいからやりなさい ゲストに出るんだと言うと それがゴールってときに 3位5位がわからなかったらね こういうこともわれたちはわからなかったんだよ みたいな遠い目をして語ってくれる先生がいたら とりあえず3位5位 わかんないけど遠くにはあるんだな なんかこの先生は遠くを見てる なんか見たことがあるんだなみたいな っていうものがないと 公式を覚えなさい 無責任でそれがないものを教えてること自体がね なんでもいいんだけどね 感動したことがあれば 教科書に載ってるってことは多分この先に すごく広い世界が待ってるんだろうな 俺は例えばね古文しかわかんないけど 数学の世界にも理科の世界にもあるんだろうな みたいな まさにこれも転用させれるっていうか 何かに深く感動したりあるいは何かを学んで カタルシスが起こった人間って その身体感覚でそれを信頼できるから なんかねやっぱ なんか教える人とか人の前に立つ人が 心から震えたものを 根拠に喋ればいいんだって思うんですよね マーケティングかとか言うな お前が感動したことだけを喋れよっていう なんだろうな それがマーケティングに乗らないって話なんだよね そういうことか Nイコール1ですよねって言われちゃうよ そうそうそうそう まあでも変わってくんじゃない 結局Nイコール1かどうかっていうのは これから先ね そんなに重要なところなのか っていうね ところあると思うんだよな 想像性とかクリエイティビティとか言いながら 教え込めるクリエイティビティって 規則のある クリエイティビティって どこがクリエイティビティなんですかとか思いません? それはクリエイティブじゃない なんか矛盾がある 予期せぬものとか 予期せぬものと予期せぬものが マッチングして 見えないものが見えるようになったみたいな 偶発性とか クリエイティビティとかあるのに クリエイティブを教えますって 教えれるもんなんですかそれっていう 根本的な 遊んでるうちに偶発性が起こるんだよ とりあえず遊び方 良い遊び方はあると思うんですよね 良い遊び方とは良くない遊び方 つまり偶発的な何かクリエイティブなものが 出やすい土壌か出にくい土壌かはあって そこにやっぱ遊びみたいな ものを 大事だと思うんだけど それってでも再現性がないですよねとか言われると まあだから再現する前に 自分に引き寄せてるかどうか っていうのはすごい大事だと思うんだよね 今日 今朝方かな 堀江文化なんかが 書いた文 書いた話がニュースに上がってて もう日本人の読解力が もうやばいもん でそれに対してヤフーニュースで コメント書いたんだけども 確かに読解力がないな っていう風に感じるシーンは 多々あるとは思うんだけども じゃあそれをどうするのって話をしなければいけなくて で 例えば俺の授業なんかで すごくやってるのが 言い換えをするっていうやつなんだよね 言い換えをする 例えばゲイテはこんなこと言ってます じゃあそれどういう意味なのか 自分の言葉で素早く言い換えてみましょう みたいなことをそれぞれがやって それぞれの答えをシェアしたりだとかもしていく そういうトレーニングっていうのは 多分やってると だんだん読解力についてくるんだけども なぜつくのかというと 自分の言葉で言い換えてるからなんだよね 人の言葉を読んでいるだけでは おそらく読解力ってついていかないと思うんだよね でそれがメタファー っていうものが 自分で言うところのこれのことだな 多分みたいな風な 気づきっていうか なるほど感みたいな ものって自分の言葉で言い換えた ときに初めてああこういうことか っていう風に後追いで分かる そういうようなところがあるわけだよね そういうことをしっかり トレーニングしていくっていうことを 義務教育でもいいし塾でもいいし やっとけばいいなと思うんだけど やっぱ受験教育って そこをすっ飛ばして 次行っちゃうんですよね 確かにだからみんなで品をつくりましょう っていう授業が なんで学校教育だとできないかというと 採点できないからだと思うんですよね そうそうそう 採点する授業は採点する授業であって 今日は遊ぶ日だからって みんな自由にメタパを作ってごらん これは評価関係ないから だから評価もいろいろあっていいんだよ これはグローバルな評価ですよ じゃなくて今日の評価 私の好き嫌いです 今日の授業の 今日のクラスの中で英雄として 今日はこのメタパを作った人が 今日はみんなクラスから 賞賛されたっていうような評価になるとか ただそれは別に 成績とは関係ないけど 今日クラスの中でこの英雄すげーって みんなが言ったっていうのが1位とか そういう感じで評価はなってるんだけど それが成績という数値にはひも付かないんだけど なんか今日クラスの中で あの英雄出したあいつすげーみたいな この英雄今日のベスト 1番じゃないみたいな 空気になったってだけで十分評価になってるんですよね 評価というかリアクション それに対する ある自分のアクションに対して何かちゃんと世界の側から リアクションが返ってきたっていう感覚 良いものは良いって言ったし これは面白くないなって 返ってきたっていう感覚が一番大事だなと思ってて そういう形だったら 学校教育でも投票じゃなくて 今日英雄いくつか出てきたけど 良かった英雄に一票投じてくださいみたいな 今日のベスト1はこれです 今日のベスト1はこれですみたいな それが客観的通じてき 未来英語良いってわけじゃなくて 今日の授業の中ではこれが良かったねみたいな なんか分かんないけどこれが盛り上がりました 分かりましたとかでも良いわけだし これが一番受けたねとかね その時に例えば誰が書いたものなのか 切り離しても良いし 使っても良いし バルトじゃないけど そういうものを切り離す評価とか 多分入れていくと良いと思うんだよね だからちょっと英雄はね 本当に現代文の授業の中で いっぱいやっていかなきゃなと思ってて メタファー 要はSNSの炎上だとかも見ててもさ これがメタファーである可能性だとか っていうのは 基本的に考えてないなっていう炎上の仕方を みんなするじゃない 文字通りに受け取ると でも時期通りに受け取って なんかね 言ってるんだけども 時期通りに受け取れてないのが大半なわけだよね しかもね だから二重でちょっと読解力っていうものは なんとかせなあかんなと思うね でもやっぱね世の中が複雑すぎるのかなとも思うし 言語ゲーム 言説とか考えなきゃいけないことが多すぎて 典型的にだからやっぱ この前岡田斗司夫が YouTubeの切り抜きで言ってましたけど 日本のなんでネットが荒れてるかっていうと 日本の識字率がバカみたいに高いせいだっていう スマホがみんな持てて どんな階級の階層の人でも スマホを持てて文字が読めてしまうっていう 海外だと スマホが持てて文字が読めるっていうのは 実はある一定ラインより上の階層じゃないと そういうことをしない だからによって日本のネットは荒れたって言うんだけど でもそれって逆に なんだろうな 今回の収印券とかもそうだけど これを合理的に 判断できる国民って人口の何パーいるんだろうな と思って すべてをちゃんと言語的に理解して 把握した上で 僕としては日本がこうなってもらいたいかなってビジョンのもと ちゃんと組織表とかでもなく 判断できると 相当難しいゲームな気がするんですよね 昔はたぶんイシューが 賛成か反対かみたいな それこそ100年前とか 数十年前とかだったら 割とイシューがはっきりしてるし 科学的な例えば 遺伝子組み替え作物 賛成ですか反対ですかみたいな そういうテクノロジーすらなかった 今ゼロベースで考えなきゃいけない地平線 今すっごいさまざまな場所 広がっちゃってるんだけど これたぶんホモサピエスの脳の処理能力的に キャパオーバーだと思ってて どうしたらいいんだろう だから グーテンベルクギャラクシーの時点で キャパオーバーだと思う カツジさんっていうものは 僕らのホモサピエスの脳が想定しないんですよね テキスト情報なんてものは だからやっぱり そういう意味でメタファー神話って ショートカットして 理解できる 何か大きなものがあるってことは理解できるみたいな さまざまなことは置いといて 統合するとこんな感じっていう 物語が見えるのが いいところで それはロジックで説明 論理的に説明すると 理解するまでに 前提知識どこまで理解しなきゃ そこにたどり着かないのかなみたいにあるけど 神話物語 メタファーみたいなものっていう ある意味ショートカットで僕らが 身体的なレベルで こういうのが大事だよねとか こういうのって邪悪だよねっていうものを すごくストレートに把握しやすい ものが フィジカルとメタフィジカルの間は すげえ近いというか フィジカルが前提としてなければ メタフィジカルにはいかないわけ ですよね その重なり 例えば地域なのか文化なのか っていうことと文法的な 正確さというか お約束みたいなものが両方重なった上で さらにその上にいろんなものが重なってきて 何と何が重なってるのか みたいなことを想定しないと その辺のコントロールは難しいと思うんだけど なんかわかった それでいうと 最近のネットの言説を僕が見た瞬間に めちゃくちゃ刑事上学的か めちゃくちゃ刑事家的な 動物的なものか すごく理性的な人間っていうものは こうあるべきだみたいな超ポリコレの 極めまくったみたいな言説から 世の中の道徳性を批判するみたいなものだとか 感情対空論みたいになってんだよ そうそう 真ん中に心ある 良識のボンファンスがここにあるべき 真ん中の良識がスポンと抜けてて どっちも過激な言説なんですよ 刑事メタフィジカルな すごくこう 理性的な21世紀的な 人間理性みたいな とこから世界を論じちゃう人と もっと動物的なレベルの 感情的なすごい早い だからこそ 今やっぱり見直さなきゃいけないのは プラクシスとポイエーシスなんだ 実践をしていながらじゃないと そこって繋がらないし 物を作っていながらじゃないと そこ繋がらないから そうなんかね いろんな領域で真ん中がないっていう つまり真ん中ってまさに 領局王だからね 海綿化成人みたいな 水にも油にも両方とも 手を繋げますよみたいな人が お前はどっちなんだ お前水なのか油なのかみたいな そいつらを繋ごうとしている 中間的なミディアムなんですよ 媒体なんですよっていう だからうちの塾は統合型と 名乗っているのは 実は学びというものは死であり 総合統合に向かうもので あった方がいいと そうじゃないと 今の従来型の学びが 分断に向かっているので 構造的にね じゃあオルタナティブやるんだったら 真逆を互換しないといけないよね っていうそういうことなんだよね ちょきちょき切り分けちゃったものってよくないよね 何とかしなきゃって言ったら 国語とはくっつけることじゃないですか 結びつけるとか結び直すっていう 我々がやっていることも 例えば国語の授業でやっていることは 国語という切り口で全教会やっている 歴史の話もすれば言語の話もするし 認知心理学とか 認知科学的なことも しゃべるし 社会科の授業も社会科という切り口で 全教会やっているわけだし理科もまた同じだしね そういう風にくっつけていかなければ 典容だとか生かすなんていう話にも なりにくいわけでね 分けるっていう時代はもう終わったんだよ と思うんですけどね 分けるの次行かないとね メタ認知の次みたいなところでもあるんだよ その辺をちょっと もう少し次回は掘り下げていきたいですね 魔術とね 次回はロジックとマジックとその辺を いきますか エイジェットとトシヒコルと 僕もまだ読んでないんで とりあえずここまで 30分話を聞いてみて エイジェットさんに一言ずつ なんか 全然 あれでもいいよ わけ分かんなくてもいいから こんなことが頭によぎりましたとか 考えましたとか言ってください じゃあ どっちからでもいいよ じゃあ Bさん 実はちょっとさっき 日本人の理解力が落ちているみたいな 話はちょっとチラついてるじゃないですか なんですけど 最近こう 俺の言ってることが友人にあんまり 理解されなくて これは俺の表現力がないのか 相手の読解力がないのか どっちなんだろうって ずっと思ってたんですけど 両方だと思い続けるのが一番良い あるいはどっちなのかなっていうのを 観察して 実験的にやってみるみたいな 今すごい悩んでて 読解力がない 相手に 分からせることができる表現力っていうものが あるかもしれないしね そうしたら自分は表現力を磨いた方がいいし でも自分が言ってることが ずれてるのかもしれないし 勘違いなのかもしれないし 前提が違う 前提が共有できてないっていう問題なのかもしれないし とにかく 一つの答えっていうのはない中で どうやっていくのか でもやるべきこととかやった方がいいことっていうのは もう結構いくつかあるじゃない それを極めていく中で これ効果があったなとか これなんか近づいたなみたいなのを 拾っていくしかないよね 嫌味やけど 嫌味伝わってない 嫌味を言ったりすると 必ず通じないんですけど それはラッキーなんじゃないの? もちろん攻撃したいから チクッと刺したいわけだよね 雰囲気を言うと どういうこと?どういうこと? 何?意味わかんないんだけどって必ず聞かれる 皮肉とかブラックジョークっていうのは 文化の共有が非常に重要なので 相当リテラシーが 皮肉って相当リテラシーが コンテクストに乗っていかないと 文字通りじゃわからないからね 業界読んで 背景読んでってやっていかないと難しいよね そういう 皮肉かっていうのは記憶の一周かかる 一周かかる人 今から皮肉を言いますな これは皮肉なんだけどねって最後に言ってみる 私文字通りストレートに言うと こうこうこういう意味なんですけど それはさすがに角が立つので 私は今から皮肉として言いますけど 答えを言ってから 今から オブラートに包むとこういう表現になります よろしいでしょうかって でもそれさ 自分の中でも読解力になるかもね これを直通りストレートに ストレートに言いたかったらどういう言葉になるの でもそれはこれがこの皮肉 この闇に言葉に変換されるんだなっていうのは すごく頭で パズルとして面白いよね 最近皮肉の研究をしておりまして 今から言う皮肉が どの程度皮肉に聞こえたか ちょっと評価してくださいみたいな 8から7まで選んで とても皮肉に感じた どちらでもないみたいな 7段階スケールでお答えいただけると 後で統計的に処理ができるので オブラートで食っちゃうよ そこまで言ったら そこそこ面白いと思う人もいると思うけどね なんでこいつは皮肉と言い止めに こんな命がけがあんの でも言語の まさにレトリックの中でありますよね アイロニーとか なんで伝わるのかっていう ありがとうございます そんなことを考えながら聞いててくれたわけですね エルさん 正直 話を聞いてて 教えてる自主性っていうか 自分でやることが 限られたもので出してるから 量産型みたいな 量産型主体制 主体制の中で 制限されてる中で 制限を超えてできるものがあると思うんですけど 全部行き着く先は ほとんど同じ場所だなって 思ってて ここの授業だと 教え方ができるから色々伸びるじゃないですか でも学校とかだと 何かで制限してるから 新しい考えが潰されちゃって 一個の答えが 絶対正解がないものなのに それが正解っていう 強制的に持っていっちゃうのが あるように感じたんで 学校が教えてるものが 変わらなきゃ 育つのが どんどん潰されていく感じが ウェルさんみたいにそれをメタ認知してるんですか そうなんだなっていう風に 分かってる人たちが増えて 潜在的には結構多くの人が 分かってると思うんだよね 同じゴールを目指して 同じビジョンを目指すゲームに乗って そこで自分を磨くことも できなくはないじゃない このルールのこの縛りプレイ この自由度の中で そこでふざけられるかとかっていう 縛りプレイをやってるっていうつもりで 縛りプレイをやっておけば 縛りがなくなるときにもっと自由になれる そういうゲームだと思って 気づいちゃった以上も 縛りプレイだと思って この縛りの中でやると スキルが上がるみたいな 遊び方かなって気がしますね 気づいちゃいましたか 管理された主体性 管理された自律性みたいな 量産型主体性って面白いね その言葉は面白い 同じ考えしか生まれない さっきのAURAの話だと 同じ考えだったら AURAはどんどん失われていく だったら一人一人しかない AURAを育てる方が 今の社会 多様性の社会なのに 一個だけになったら 多様性じゃないじゃん 今AIとかもいるんで どんどんAURA奪われていく 可能性あるのに もっと奪うのかって 量産型AURA そして価値が崩落する 落ちていく 量産型AURAいいね AURAステッカーみたいなのも貼ってね そんなことなく語義矛盾というか 何かが 邪悪な音の響きがあるっていう AURA検定とか始めましょう AURA検定 誰が評価するの? はい、というわけで今日は 小学生のお二人にも参加してもらいました ありがとうございました はい、というわけで知事さん とりあえず本編はクロージングに向かいますけれども 二人の意見を聞いて どうでした? いや、なんか なんだろうな 僕たちの授業をすごく聞いてくれてるんだな 聞いた上で自分たちが ありがたい まさに今日この日は 前半僕の授業、後半ヤギさんの授業を 連続で受けてる だからそのね 予期せぬ形に枝が伸びていってる っていう感じって 本当に命というか生命って感じがするんですよね こうなってこうなってくんだろうなっていうのじゃなくて そうなってくんだなっていう 枝の生え方とか目の出方っていうのを 目の当たりにする それがさっきの臨床というか メタフィジックスと 地面を這い回ってしまうようなレベルの 真ん中を目指せるのって そういう臨床というか 目の前で命が 命として形になっていくのを 感じれないと エネルギーで出ないような気がするんですよね それってさ さっきの読解力の トレーニングもそうなんだけども ちゃんと聞いてれば 全員違うはずなんだよ 言い換えてください 一文字も違わないことを 言う人なんていないわけ ある程度のまとまった文章だったら そこに違いを認めて なるほどそういったかっていう部分を 見出していくっていう そういうことなんだろうな って思うんだよね だから僕今植物の成長 我が家は結構植物を育てるんだけども 植物の伸び方って 前々からよく言われるじゃないですか どこに枝葉が伸びているのか どこに枝葉が伸びているのか っていうことがそんなに決まってなくて その状況状況で伸び方変わっていくみたいな やっぱり人間も そういうぐらいの自由度があるな って思って 共に過ごすみたいな もちろん自分の枝葉が どこに伸びていくのかも 彼らによって変わるのかもしれないし さっきの話じゃないですけど 量産型主体制っていう言葉は 俺はすごい面白いなと思って ちょっとこれは使わせてもらおうかな って思うようなことが出てくるわけですが その面白さを お互いにシェアしていく 認めていくみたいな場っていうのが もっといろんなところに できるといいなと思いますね そんなわけで 一旦ここで メタファーからアウランみたいな話は 区切って続きの話 もっとマジック的な話 は次回につなげていきたいと思います というわけで 今日はお相手は萩国彦と 石川内優太でした みなさん遅くまでありがとうございました ありがとうございました もっと見る #教養 #リベラルアーツ #探究学習 #知窓学舎 #近内悠太 #矢萩邦彦 リベラルアーツ探究実践Radio矢萩邦彦|ArsCombinator38:571.【対談】近内悠太✖️矢萩邦彦 教養と哲学を考えるラジオ アウラとメタファー編コメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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【対談】中瀬幸子×矢萩邦彦『AI時代のリベラルアーツを考えるラジオ』#8 39分・7月14日・ 65再生AI目次教育の「変わらない」なぜ?AIと子どもの世代間ギャップ「自分軸」育成の課題と重要性AI時代に広がる仕事と生活の自由リベラルアーツを「生きる武器」に
【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』ロゴスからパトス、エートスへ編 43分・6月23日・ 131再生AI目次放送の根源?臨場感と計画性の対話ロゴス、パトス、エートスの本質とはAI時代に欠ける「魂」の正体CD回帰から見えた人類の「回復」教師の役割と教科書の「面白さ」
【対談】佐藤雄太×矢萩邦彦『AI時代のリベラルアーツを考えるラジオ』#07 58分・6月13日・ 105再生AI目次AIが変える時間の相対性とキャリア教育現場の違和感が拓く新たなキャリアAIが変えるマルチキャリアの可能性AIが変える自宅学習の未来と課題AIとリベラルアーツ:思考の本質
知窓学舎放課後職員室#9[年度初めの模試について] 50分・6月9日・ 80再生AI目次ゴールデンウィーク明けのメンタル調整術新年度模試:点数だけではない評価基準最適な模試頻度と学習計画のコツ「できたはず」問題が成長のカギ過去問で探る学校の個性と出題傾向
【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』スマートさは敵か味方か!?編 52分・5月26日・ 119再生AI目次出版業界の慣習と契約書の謎現代社会が求めるスマートさの裏側「クレバー」と「スマート」の相違人がスマートさを希求する理由AI時代に不可欠な「余計なこと」